どんなことを「愛」だと思ってる?幸・不幸を左右する愛の定義

 

愛、と聞くとどんなイメージを持つでしょうか?

「愛する」って?

「愛される」って?

実は、この「愛」という言葉にも、人によっていろんな定義と解釈があるものです。

そして愛とは、単純に「好き」のもっと強いやつ・・・というわけでもないのです。

参考記事:愛と好きはイコールじゃない

そしてその愛の定義によって、人生は生きやすくも、生き辛くもなるもの。

だとしたら、自分がどんな「愛の定義」を持っているのか、今一度検証してみるのも意義深いことです。

愛とは「もらうこと」という定義

多くの人が無意識にしている愛の定義、それは

愛とは「もらうこと」である

というものです。
これは生まれてきた子供にとっては当然のことで

お世話してもらえる
抱っこしてもらえる
かわいがってもらえる
言葉をかけてもらえる
遊んでもらえる
気にかけてもらえる
話を聞いてもらえる・・・など

一人では生きられず、絶対的に親に依存して生きざるを得ない子供にとっては、当たり前の欲求でありニーズ(必要性)なのです。

そのような自分の欲求とニーズを、親がわかってくれて、それを与えてくれる。

それを感じられることが「わかってもらえた!」という満足であり、イコールそれが「愛されている」という実感になります。

だから、この段階での愛の定義は

愛とは、自分の欲求をわかってもらえること、それを与えてもらえること

ということになります。

逆に、この段階で十分にそれを満たしてもらえた実感がないと「愛されていない」という解釈になりますので、そこから「私は愛されない子だ」といったような、コアビリーフ(自己定義の土台)ができあがることになります。

してもらえると愛。
してもらえないと愛じゃない。

この人生最初期の愛の定義が、その後も無意識に継続しますので、多くの人が大人になってからも、自分の欲求を満たしてもらえると「愛されている」と感じ、満たしてもらえないと「愛されていない」と感じるのではないかと、私は推察しています。

というわけで、このように

愛とは「もらうこと」である

という定義を持つと、同時に

愛とは「あげること」である

という定義も表裏で発生します。

それによって、こんどは自分が愛する側になった時に、愛の表現として、「してあげること」しか思いつかない、わからない、といったことになりがちです。

何かをしてあげる、あるいは物をあげる

もちろんそれも愛の一つの表現ではありますが、あまりにもそれだけを愛だと思ってしまうことの弊害というのも生まれてきます。

本人が欲しいと思っていないものまで、先回りして「してあげる」「与えてあげる」・・・というのは過剰さ、過干渉となり、受け取る側にとっては必ずしもありがたくなかったり、自分で試行錯誤して成長する機会を奪われてしまうようなことにもなります。

いわば相手が伸びず、本来の力を腐らせてしまうような「愛」。

それが、自分が本当に望む「愛」の姿なんだろうか?
と考えてみることも必要になるでしょう。

人がその人らしく伸びることを何よりも喜ぶのであれば
なにもしないで、ただそばにいる。
相手をただそのままにしておく。
それも一つの愛です。

つまり

愛とはもらうことである

という定義を信じすぎると、自他共に「もらえる・もらえない」の次元で振り回されることになり、お互いの成長発展には結びつかないことも多々あるということです。

参考記事:「愛の人」がもっと愛を輝かせるために

愛とは「かわいそうと思うこと」であるという定義

その他にありがちなのは

愛とは「かわいそうと思うこと」である

という定義。

おかあさんが、かわいそう。
おとうさんが、かわいそう。
うちの子が、かわいそう。
となりの◯◯ちゃんが、かわいそう。

かわいそうという感情もまた、愛と結びつきやすいものです。
それは、慈悲というものにもつながるので、たしかに愛の一つの現れではあるでしょう。

しかし「かわいそう」という感情が愛だと信じ過ぎていると、

自分自身の中に「愛」を感じた時、自動的にそれを「かわいそう」に翻訳し、それゆえに「かわいそう」なネタをみつけてきて「かわいそう!」と言う。
そしてあれやこれやと気を揉み、手をかけ、厄介ごとにする・・・・という回路を脳は作るものなのです。

それによって、本当のところご本人はちっともかわいそうとは思ってなかったりするのに、勝手に「かわいそうな人」に仕立て上げられ、かわいそうな弱い人として憐れみを受ける・・・というあんまりうれしくない事態になったりもするのです。

参考記事:すごく「愛」みたいに見える「かわいそう」の罠

この「かわいそう」の同類のようなものに
愛とは「心配すること」である
というのもあります。

この場合も相手を弱く無力な者として扱うことで、愛を実感するという構造になっているのです。

参考記事:期待も心配も愛ではない

それが本当に愛なのか?
それ、向けられた本人は喜んでますか?
という問いは持ってもよいところだと思います。

さて

愛とは「かわいそうと思う」ことである

という定義が自分自身に向くと、こんどは自分がいつまでたっても「かわいそうな人」をやり続けるということになります。

なぜなら、愛されたいから。
愛を感じたいからです。

愛=かわいそう なのだったら、愛を得るためには「かわいそう」でなければなりませんよね?

「かわいそう」と思われると「ああ、愛されてる!」と感じる、という回路ができちゃってるんですね。

だから、なにかと自分をかわいそうな境遇に置いたり、わざわざかわいそうな役回りをしたり、かわいそうっぽい顔をしたり、言ったりするわけです。
これ、全部無意識になんですけれどもね。

いつまでたっても幸せになれない(と思っている)人は、この「愛=かわいそう」をやっている場合がけっこうあるので、探求してみましょう。

その原点には多くの場合、「お母さんがかわいそう」「お父さんがかわいそう」という、親にたいする「愛=かわいそう」の図式があるはずです。

人にやってることは、自分にやってること、ですからね。

参考記事:幸せになれない人の「母への誤解3原則」

苦しみを呼ぶ愛の定義

その他にも、

愛とは傷つけることである

という定義を持つ人もいます。

そうすると、いっつも大切な人と修羅場をやって、傷つき傷つけ、熱苦しい(失礼!・笑)ドラマを繰り広げたりするでしょう。
そうやって傷つけ合うことで、愛と絆が深まるような気がするわけです。

そうしたら傷つけ合うことをやめることはありません。

愛とは怒られることである

という定義を持てば、いつも誰かに怒られるようなシチュエーションに身を置くでしょうし、そこで「反省」することで絆を感じることも起こりうるでしょう。

その派生型として、相手に服従することが愛 だと思っている場合もあります。
愛ゆえに、自分を殺し、服従してあげる。
理不尽に厳しいような親の元では、そうならざるを得ない場合もあるのです。

参考記事:力いっぱい押し返せ!愛のつもりで服従になっていないか?

自分側に裏返せば、愛していると思った相手にはいつも怒る、ということをやる側にもなりますし、自分が力を持つ側に立った時には、相手に徹底した服従を求めるといいうことにもなります。

愛とは一緒に苦しむことである

という定義を持てば、いつも苦しい場所へ出向いて、苦しい状況を引き寄せ、一緒に苦しい苦しいといって過ごすことになるでしょう。
それが愛だからです。

ということは逆に、楽したり喜んだりすることは愛ではなくなってしまうため、楽しい嬉しいといった感情を得そうになると、愛を失う恐怖と罪悪感がやってきます。
だからまた、愛がゆえに苦しい世界へと戻っていくのです。

参考記事:絶対に幸せにならない人の心理

愛とはお金を稼ぐことである

という定義を持っていれば、愛するもののために、とにかくお金を稼ぎにいくでしょう。
お金お金、仕事仕事。
見ている方向はお金や仕事のことばかり。
これは昔ながらのお父さんがよくやっていたことです。

そんなお父さんを見て家族は「ぜんぜん私たちのこと見てくれない!」と不満いっぱいです。
そんな妻や子供達が持っている愛の定義は「してもらうこと」ですから、

見てくれないお父さん =愛がない

に当然なるのですが、
「愛とはお金を稼ぐこと」という定義で動いているお父さんからすれば
「これが愛じゃないかー!」というわけなんですね。
ああ、すれちがい(笑)

参考記事:「稼いで家族を養う」ことがお父さんなりの愛だった

みんな愛なのよ

このように、愛の定義は本当にそれぞれ。
しかもそれが無意識で行われているので、みんな無自覚です。
でも、違うからこんなにすれ違って、そしてわざわざ不幸になったりもする。

でも大事なことは、みんな、ぜんぶ愛なんです!

参考記事:それでもやっぱり愛

人は愛をいちばん大事にしたい生き物です。
人は愛のために動きます。

極端な話、祖国への愛や家族への愛のためなら、人を殺すことさえやってのけます。

どんなに変な論理でも、傍目からは頭をひねりたくなるような定義であっても、それはその人にとっては、愛なんです。

だからこそ、

何を愛と思っているか?

そこの問い直しと純化が必要だと思いますし、自分も人もより幸せになる愛の定義とは何か?と、愛の定義をバージョンアップさせていくことが大事だと思います。

そして大切なことは、愛の定義を一つだけに信じ込まないことです。

一つの定義だけを信じ込むことはまるで、醤油味が好きだったら、なんでもかんでもお醤油ぶっかければおいしいでしょ?といってるようなもの(笑)。

いやいや、時と場合によりますでしょ。

愛の定義の進化、そして多様性に心を開いていること。

それが、本当の意味で自分も人も世界も、幸せにしていく鍵ではないかと思います。

宇宙レベルの愛は広大

実は愛とは、とてつもなく広く、360度あらゆる方向に「ぜんぶあり」というようなものなんじゃないかと私は思います。

参考記事:どんな自分にも「いていい」と言おう

私たち人間の頭程度では、まだまだその一部しか認識できないくらい、宇宙レベルからみたらものすごく広大なものなんじゃないかと。

そんな中で、ごく一部の限られた「愛の定義」の中でバタバタしている私たち。
それが、人間として生きるということなのでしょう。

さて、あなたはどんなことを「愛」だと思ってますか?

参考記事:愛されなかった子供たちへ。それでも宇宙が「いていい」と言っている

 


この記事を書いた人

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大塚 あやこ

心理コンサルタント/作曲家/ピアニスト
一般社団法人ビリーフリセット協会 代表理事
 
東京芸大作曲科卒業後、演奏家・作曲家として活動。アーティストのツアーサポートや編曲、アニメやドラマのサントラ作曲等を手がける。
 
音楽での燃え尽き体験をきっかけに、心理カウンセリング/セラピーへ転身。
悩みの根本原因に迫るオリジナルメソッド「ビリーフリセット®」を提唱し、前に進みたい人、人生の転機に直面した人などを新しいステージへと導く個人セッションや講座を開催。「ビリーフリセットで人生が変わった!」という人多数。カウンセラー養成講座も開催し門下の認定カウンセラーを多数輩出している。
その他、心と意識をクリアにするサウンド瞑想など、独自の立ち位置で音楽制作やライブイベント等も行っている。

◎一般社団法人ビリーフリセット協会代表理事
◎淨音堂株式会社代表取締役

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