この仕事をしていて色々な方の深い話を聞いていると、みんな表向きはともかく、内面的にはそれぞれに傷や重たい荷物を抱えているよなー・・というのが実感です。
それを抱えながらも、一生懸命努力して、それなりの仕事についてキャリアを積んで、立派に生きているんです。
その上で、人生の岐路に立って自分に向き合おうとされている。
自分が転換することで、これまで培ってきたものをもっと大きな何かに生かそうとされている。
すごいです。
あっぱれです!
私のところにいらっしゃるのは、そんな方たちです。
先日、今年の3月から開講していた3期BRC(ビリーフリセット・カウンセリング講座)が、ベーシックを経てアドバンスへ、全9ヶ月が修了しました。
1期から始めて、現在3期。
毎年集まる方によってそれぞれのカラーがあり、私自身も学ぶことが大きいですが、今回私が3期で実感して学んだことはそういうことです。
どんなに傷が深くても。
どんなに背負った荷物が重くても。
人は立ち上がれる。
内側に眠った力と輝きは必ず現れる。
その方自身の愛と世界の愛
決して失うことも壊れることもない。
言葉にするとそんなかんじです。
最終講には、全員がこれまでの振り返りをプレゼンテーションするのですが、皆さんの体当たりの自己探求を堂々と自己開示されて、本当にそれぞれの発表に重みがあり、感動的でした。
その中のお一人が、こんな言葉を使っていました。
「親の愛を知らなくても、私は世界に祝福されている」
いろいろあったその方だからこその重みを持った一言で、その瞬間みんなの間に深いうなずきと感動が走りました。
この方だけに限らず、今回の3期受講生さんの中では、まさにこの感覚がぴったりだろうなあと思う方が多かったと思います。
「愛された」とは思えない人
「私は親に愛された」と多少なりとも思える人は、恵まれた人です。
これまでなかなかそうは思えなかったとしても、心の学びをしたり大人になったりして、よくよく考えてみたら「あれでも愛してくれてたんだなあ〜」と思えるようになることもあります。
それもそれですばらしい。
よくそこまで取り組みましたね。
でもね、どうがんばってみてもその実感を持てない人っていうのも、いるんですよ。
「愛された」なんて、思おうと思ったって、思う材料がみつからない・・・
それは傷が深い人です。
傷がそこまで深くない人や、傷があってもとりあえず色々塗り固めて乗り切れている人は理解しがたいかもしれませんが、実際にそういう人もいるんです。
本当に、どうにもこうにも、親にひどい扱いしか受けなかったような人って。
愛があったなんて思いようもないような人って。
そりゃあ無理だわ!としかいいようのない人って。
いるんですよ。
そういう人たちに一番酷な言葉は「親孝行」だと私は思います。
「親孝行」というビリーフ
「親孝行」という言葉には、べったりと「こうであるべき」「ねばならない」「こうで当然」という強制力が張り付いています。
まさにビリーフ。
親の言いつけを守って
親の望みを叶えて
親を喜ばせて
親を悲しませることはせず
親の愛を喜び
親の恩を思い
親に感謝して
親を敬って・・・・などなど
いわゆるそれが、昔ながらの美しき「親孝行」。
多くの日本人の中に無意識的に「入っている」ビリーフです。
いや、本当にそう思える人はいいですよ。
それはすばらしい。
立派だ。
どうぞそれでいってください!
あるいは、そこまで本当に心から思えてるかどうかはわからないけど、とりあえず「そういうもんだから」でそれ風にそこそこやっていける人も いいでしょう。
どうぞそれでがんばってください!
でもね。
先ほど書いたような傷の深い人たちは
どうがんばったって、そんな実感は持てないんですよ。
それどころか、その通りにしていたら自分が壊れるか死ぬかになります。
実際、だからこそ子供のころから死にそうに怖い思いをして、いかに生き延びるかの策を必死に講じて、あの家で生き抜いてきたのですから。
「親孝行」では救われない人もいる
そういうお家では、親自身もまた、深く傷ついています。
そしてやはり、親もそのまた親から「愛」のようなものをもらった実感がありません。
それが傷の元にあります。
そして人は、根本が傷ついていると、それを守ろうとしてエゴがもつれまくって肥大化し、どうしようもないことになってしまいます。
もつれまくったエゴが肥大化するとすごい勢いで自他を傷つけ、もちろんそれは自分の子供であっても容赦はないのです。
だから、そういう親のいる家に育ったお子さんは、親の支配下においてはサバイバルにならざるをえません。
親がそうであったように、やっぱり「愛」のようなものをもらえた実感はないでしょう。
それどころか、なぜかわからない謎の攻撃を受け、謎に否定され、自分を脅かされて育つのです。
そういう方の場合、上記のような「親孝行」をしようとすればするほど、自分が壊れていきます。
自分という存在は徹底的に潰され、最悪の場合、死に至ります。
それで、愛だ感謝だ、言われたって、ねえーー。
無理でしょう。
でもね、そういう「常識」の強制力ってすごいから、世間で「親孝行」と言われれば言われるほど
とてもそうは思えない私
という深い影がザックリと心に差して、後ろめたさがついて回るんです。
つまり罪悪感。
これは酷なことですよ。
そう思わなくちゃいけない!
でも
そう思えない・・・
そう思えない私は悪い人間。
親不孝者だ。
って、そうやって自分に刻印しちゃうことが一番の苦しみになります。
実は、生まれ育った家庭がどうこうっていう、そんなことは形的な条件にすぎません。
そこは本質的な問題じゃない。
重要なことは、それによって自分で自分の存在を認められず、OKできず、罪悪感を背負って生きてかなきゃいけないこと・・・それがなによりも辛く不幸なことだと私は思います。
だから!
そんな罪悪感のループからは出なきゃいけない!
それが救われるということです。
救われるとは、心の重荷を降ろして軽くなり、自分が自分でいいと思えて、自分の人生を生きてOKになることです。
幸せになっていいと自分にOK出せることです。
だから、そういう方たちが救われるためには、別のパラダイムが必要なんだと思います。
「こうであるはず」が自分を傷つける
たとえばこんなかんじ。
「私愛されてないし!」
「愛されないのは私がダメなんだ」
と自己否定し
と恨み
と嘆き
とまた自己否定し。
それってけっこう普通だよ
「結婚は愛じゃなくて生活で考えるべし!」なんていうご託宣も世間にあるくらいだから。
こんなはずじゃなかったとか。
普通だよ。
普通だよ。
・産むなら2人って言われてるから
・「一人っ子はよくないわよ」って近所のおばちゃんに言われるから
大丈夫。
・責任とって
・しょうがなく
けっこう普通だよ。
・愛せない
・かまい方がわからない
・近づくのが怖い
・子供どころじゃない
それもけっこう普通だよ。
そして、傷の深い人は自分の傷を相手に投影して、相手を責めます。
「自分を抑えてる」なんていう自覚もないんです。
・わけのわからない言いがかりとダメ出しばかりする
・意味もなくキレる
・酒やギャンブルに逃げる
それはあなたのせいじゃない
さて、いろいろ言いましたが。
あなたがそんな親のいるお家に生まれてきたとして、
そんなに大事にもされず
やさしくもされず
かまってももらえず
むしろ当たられて
グチ聞かされて
否定されて
邪魔されて
そんな目にあったとしてもね。
それは親がそういう事情の、そういう人だったということですね。
残念だけどあなたを愛せるような状態じゃなかったってことです。
そこ、そのまんま受け取ってみるといいです。
ほんと、残念だけど。
思いきりがっかりしてみてください。
あの親は、そういう普通の
テンヤワンヤした人だったんですよ。
しょうがないね。
怒ってもいいんですよ。
なんだよ、ひどいじゃないかよー!!って。
そう、かなりひどかったかもしれないよね。
ひどいって認めていいんですよ。
ひどかったんなら、
親がひどかったんです。
あなたがひどかったんじゃない。
ここが大事!
それは決して
「あなたのせいじゃない」
ってことなの。
あなたが◯◯な子だから、っていうことじゃないんです。
あの親があなたをそんなに愛せなかったとして
あなたという人が「愛するに足らない存在」なのではないということ。
そこ、関係ないです。
あの親があなたを愛せなかったのは
あなたの責任ではないのです。
あなたがどうだから、じゃないんです。
もっといえば、
あなたが「どうであろうと」
親自身の事情で
愛せないものは愛せないのです。
あなたという存在自身には、
なんの落ち度も曇りも欠落も
ないのです。
あなたがどうだから → 親がああなのだ
じゃないんです。
「あなた」と「親」
そこ、接続しなくていい。
その接続をやめたら、ぜったい楽になるからね。
もうどっちでもいいね
親は愛したつもりかもしれなくても
あなたが実際そう感じてないなら
あなたが自分の感じ方を信じていいのです。
産んだら育てるものだ。
家族を持ったら女は世話をするものだ。
これまでの日本のスタンダードですよ。
アッパレ!おめでとう!!
よくまあ、こんなハードな設定のところにチャレンジしてきましたね。
くれなかったとしたって
そこはたいした問題じゃない。
親の愛を知らなくても
あなたに「生きよ」と言った。
親にとって大事だったかどうかは
とりあえずどっちでもいい。
そんなことはもうどっちでもいい。
他の人たちのいろいろなご縁を使って
なにかしら与えてくれていた、
その巡り合わせをくれたのは誰?
気力、体力、ど根性を
装備させてくれたのは誰?
自分自身の深い叡智でもあるのかもしれない。
大人になった今は
たいへんだ。
「せめて」
いつの日か、あの親のことも
「ああ、切ないね」って
思えるようになったら
それがあなたにとっての
最上の親孝行かもしれません。