私は心理カウンセラーをやるくらいですから、人の悩みや苦しみというものにもともと興味があります。
興味というか探求心ですね。
なぜ人は苦しむのか。
人の苦しみの元には何があるのか。
どうしたら苦しみを脱することができるのか。
そのことについて考えるということは、ひっくり返せば「どうしたら楽になるのか」を考えることでもあります。
私も私なりにそのテーマを考えるのが好きで、そんな考察を折々ブログに書いてきました。
もちろん答えは一つではなく、いろんな角度と深度からいろんなことが言えるのですが、今日はこんな見方をお伝えしたいと思います。
人はどうしたら楽になれるのか。
あくまでも今日の、一つの側面からの一つの言い方です。
「親のことを諦めること」です。
諦めきれない闘い
多くの方達を見ていて、みなさまの「苦しい、しんどい、生きづらい」の大元に何があるかと言ったら、だいたいの場合「親を諦めきれてない」ということなんです。
諦める、というのはたとえば
親にしてほしかったこと
親にしてほしくなかったこと
親に変わってもらいたかったこと
親にそうあってほしかったこと
親にそうはあってほしくなかったこと
親から自分の望むような愛をもらいたかったこと
など。
そこを、心の底ではどうしても諦めきれない自分がいる。
もちろん大人ですから頭ではわかっています。
親だって完璧ではないのだ、仕方がないのだ・・・って。
でも心の奥深くの裡なる子供(インナーチャイルド)が、全然納得していないのです。
だって、でも、せめて、そこをなんとか、どうにかして・・・・と握りしめている自分がいる。
親の機嫌、感情、態度、行動、生き方、価値観、幸せを、「そうじゃなくて、こうであってくれ!」と言い張り続けている自分がいる。
それが「諦めきれない」ということです。
それゆえに、自分がこうすれば、こうなりさえすれば、こうしてあげさえすれば。こうさえしなければ、そう変わってくれるのでは・・・とゴールの見えない闘いに挑み続ける。
闘っては、「やっぱり変わってない現実」に直面して、グサッときたり、ポッキリ折れたり・・・何度そうやって挫折したでしょうか。
このパターンそのものが、人生苦しくしている元だといえるでしょう。
それを仏教的に言うと「執着」っていいますね。
かなわぬことを、いつまでも求め続け、握りしめ続ける。
だからあえてクールな言い方をしますと、私は「親のことはもう諦めな」って言いたいんです。
もうちょっと乱暴に言ったら「もうほっとけ!大丈夫だから!」です(笑)
それしかできなかった事実
どんなに「してほしかった」「そうであってほしかった」と言っても、実際のところそうはできなかった事実があるんですから。
そこに「なんで」もクソもないのです。
犬に向かって「ニャ〜と鳴け」って言ったって無理ですよね、って話。
雨に向かって「なんで雨なんだ!」って言ったって降ってるんだし、っていう話。
そこに「私がこうだったから」とか「私がこうなりさえすれば」っていう「私ファクター」をくっつける必要はありません。
親は親でそれしかできなかったんです。
そして親はそれが精一杯であり、それが全てだった。それ以上は無理だった。
そしてそれは、あなたが悪いのでもなければ、親が悪いのでもない。
そこに悪人は誰一人いません。
「犯人探し」はしなくていい。
誰のせいでもなく、それが人間というものの限界なのです。
あえて「悪い」というならば、個人を超えた人間というものの「自我システム」が悪い。(ほんとは別に悪くないんだけどね)
社会と人間との間に張り巡らされた、無形の罠と鎖のシステムが悪い。
そして誰もがそのシステムに呑まれて、ヤラれています。
もちろん親も。
そして自分も。
この地上に生きる人間とは、そういう存在です。
そこを見切っちゃった方がいい。
そのことを心底知って、清く認めて、ガックリくる。
そう、一旦ガックリきて絶望し、脱力することです。
脱力してしまったら、握りしめていたその手の力もゆるむでしょう。
その時に「手から離れる」のです。
「手離さなきゃ!」って言ってる間はきっと離れないですね。
こんなかんじの透明な諦めと脱力がやってきたら、その時に自然と「手から離れる」のかもしれません。
それが肯定と「ゆるし」
仕方がなかった。
しょうがない。
まあ、いいや。
もう、いいや。
この心境はニュートラルな肯定であり、「ゆるし」であると言うこともできます。
そんな気持ちになった時に、それでも精一杯生きている人間のけなげさ、切なさ、愛らしさが見えてくるでしょう。
それが慈悲であり、愛というものだと、私は思います。
「楽になりたいなら、親のこともう諦めな。」っていうのはそういうわけです。
そして「もうほっとけ!大丈夫だから!」。
かなわぬものを求め続け、そのために闘い続けることを、やめる日。
闘いをやめても、元々親は大丈夫だったことにガックリくる日。
それが、苦が楽に変わる大きな切り替えポイントになるでしょう。
そのことを、本当の意味で「親離れ」というのです。