親の期待と心配は愛じゃない!? 自己肯定感を奪う”毒”の正体

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期待されると、心配されるとどんな気持ち?

 

期待されている。
期待してもらっている。

と思うと、どんな気持ち?

ちょっとうれしいかもしれませんね。
そして

がんばらなきゃ。
いい結果ださなきゃ。
期待に応えなきゃ。

と思うかもしれませんね。

心配されている。
心配してもらっている。

と思うとどんな気持ち?

ちょっとうれしいでしょうか?
それとも

悪いな、申し訳ないな。
失敗しないようにしなきゃ。
心配させないようにしなきゃ。

と思うかもしれません。

期待や心配は、一見「愛」のようです。

期待してもらってる
心配してもらってる

「もらってる」から。
して「くれている」から。

でも、時としてこれが
とても重圧になることがありますね。

そんな期待に応えられないよ!
自分はそこまで無理だよ!

そんなに心配しないでよ!
自分、大丈夫だからって!

そんなふうに言いたくなる時があります。

よかれと思う、気持ちはわかるんだけど。

何か、ときどき
「本当の自分の姿、見てくれてます?」
と疑問がよぎることがある・・・としたら。

何か、ときどき
心にザラつくものをかすかに感じる・・・としたら。

たしかにそうなのです。
期待や心配は、とても微妙なのです。

なぜなら、期待も心配も
相手が勝手に抱いた、あなたに関する「想像」にすぎないからです。

逆に、もしあなたが誰かに対して
期待や心配をいろいろとしてしまうとすれば
それは本当に「愛」なのか、
考えてみましょう。

ここではわかりやすく

あなたが親であり、我が子に期待したり心配したりしている

と仮定して話を進めてみます。

「期待」のカラクリ

あなたならきっと、こうできるはず。
あなたならきっと、こうしてくれるよね?
あなたがこうなってくれたら、わたしはとってもうれしい。
あなたはこうなるのが一番いいのよ!

それはあなたが子どもの上に映し出した
あなたにとっての「願望」にすぎません。

素敵な願望を抱くことは「よい気分」ですし
それが叶えばなおよい気分。

そして、あなたが「一番よい」と思っている価値観どおりに
子どもがなっていってくれるのが「一番よい」とあなたは信じているので
あなたはよかれと思って、
愛のつもりで子どもにそれを投げかけます。

だから子どもは
そう思って「もらえている」から
相手の願望通りの結果を自分が出すと「親が喜ぶ」から
それがうれしくて
期待に応えようとしたくなります。

でもそれは往々にして、
その子の実情や本当の気持ちとはちょっとずれていたりするものです。

その子が、本当のところどういう人で
どういう思いを抱いていて
なにが本当の望みなのか。

期待に走っている時、
あなたは、そんなことは考えもしませんし
そもそも自分の願望は横に置いてニュートラルに見る
ということがなかなかできません。

「期待」に走っている時、
あなたが見ているのは「自分にとって好ましい想像」です。
あなたが欲しいのは「自分の喜びと安心」です。

重心は自分。
その子の「あるがままの存在そのもの」ではありません。

だから時に、その子は
期待をかけられることがしんどくなります。
親であるあなたの願望を
自分があなたに替わって実現させなければならないからです。

その子自身も
自分の本当の願望のことはよくわからないまま
「本当の自分」が置き去りにされていることに
うすうす気がついているからです。

もしも、親の願望を自分が実現させることができなかったら
親が自分に向ける「愛」(のようなもの)は
もうなくなってしまうのではないかと恐れるからです。

そういう「期待」ばかり向けられた子どもは
自分の存在そのものを見てもらっているかんじがしません。
自分の存在そのものが愛されているとは思えません。

親が見たいのは「親の期待にかなった自分」であり
そうでない自分のことは見たくないのだろう、
と受け取ります。

親の期待があまりにも自分の実態とかけ離れていると
子どもは非常に苦しむことになります。
外側に向かってキレるか
自分で潰れるかのどちらかになることもあります。

本当は
できても、できなくても
結果がでても、でなくても
親の思い通りであっても、なくても
そんなものを超えたところで
「ただいる」という存在そのものにOKをもらいたい。

それこそが「愛されている」実感と安心になるのです。

その実感がないからこそ
子ども自身も
自分の存在そのものにOKと思える実感がないのです。
だから、期待ばかりされて育った子どもは自己肯定感が持てなくなります。

大人になってから、そのことに気づいて
自分で自分の存在を受けとめ直し
自己肯定感を取り戻す歩みをスタートされる方もたくさんいます。

相手の存在そのものを受容し、生かし、育むのが
本当の「愛」だとすれば
期待は「愛」とは違うものです。

もちろん、愛したい気持ちだってたくさんあるはず。
元は愛のつもりだったかもしれません。
けれど、自我(エゴ)ゆえにズレてしまいました。

それでも「期待」は
未熟な愛の一つの姿といってもいいかもれません。

それは、もっと高次の愛へと成長させていけるものです。

あなたが自分自身に目を向け、
あなた自身の願望を、ちゃんと自分で生きることから
愛の成長がはじまってゆきます。

「心配」のカラクリ

こうなったらどうしよう。
大丈夫かしら。ダメになるんじゃないかしら。
悪いことが起きるんじゃないかしら。
こうなっちゃたいへん。
こうならないように。
こうさせないように。

それはあなたが子どもの上に映し出した
あなたにとっての「不安」にすぎません。

あなたが「不安」なのです。
世界を信じていないからです。
未来を信じていないからです。
自分自身の力を信じていないからです。

ほっとけば世界も人も自分も、どんどんダメになる。

そういう世界観を信じてあなたは生きています。

そしてそういう世界に生きている我が子は当然
ほっとけばやっぱりダメになると信じています。

だから、ダメになることばかり考えて
ダメにならないような対策ばかり口にしているのです。

それが「心配」の根源であり、
それを底辺で貫いているのは「不信」です。

子どもに心配ばかりするということは
暗黙のメッセージとして

「あなたにはやる力も、判断する力も、乗り切る力もない」
「あなたは危険なこの世界でやっていく力を持っていない」
「あなたを支えるような存在はこの世界にはない」

と言っていることになります。

無力で、脆弱で、翻弄されて、
そのままではダメになって死んでしまう存在。

そういう存在として、子どもを定義していることになります。

その子自身の力を信頼できないのです。
その子を支える世界の力を信頼できないのです。

なぜなら、あなた自身が
あなた自身の力を信頼していないからです。
あなたを支える世界の力を信頼していないからです。

心配ばかりされて育った子どもは
自分の力を信頼できません。
圧倒的な無力感と、世界に対する不信感絶望感を
いつのまにやら植えつけられて
生きていくのが怖くなります。

自分の感覚、自分の考えが信じられないので
自分で決められず、自分で行動を起こすことができません。

まさに自己肯定感が持てないゆえに
自分の望む人生を生きることはできなくなります。

大人になってから、そのことに気づいて
少しずつ自己信頼に向き合い
自己肯定感を取り戻す歩みをスタートされる方もたくさんいます。

あなたは「よかれと思って」
ダメになることを先に考え
「そうならないように」と手を尽くすことを
「愛」だと思ってきたかもしれません。

だから「こんなに心配している」というのが
あなたにとって
「こんなに愛している」と同義語だったかもしれません。

しかし、
愛とは相手の存在に対する絶対的な信頼と肯定であるとするならば
その「信頼」が全くないという前提において
相手の本来の「力」を肯定していないという意味において

「心配」とは愛ではなかったのです。

もちろん、愛したい気持ちはたくさんあったはず。
元は愛のつもりだったかもしれません。
けれど、あなた自身の不信と恐怖によってズレてしまいました。

それでも「心配」は
未熟な愛の一つの姿といってもいいかもれません。

それは、もっと高次の愛へと成長させていけるものです。

あなたが自分自身に目を向け、
あなた自身の力を、ちゃんと自分で信じることから
愛の成長がはじまってゆきます。

期待と心配を向けられたら

さて、ここまでは
親の立場から子どもに対して
期待と心配を向けた場合について述べてきましたが

残念ながら、
自分がそういうものを向けられて苦しんだ「子ども」であった、
という場合。

期待も心配も、一見「愛」のようですから
なかなか拒否できるものではなかったですよね。

ありがたいとすら思ってきたところもあったかもしれない。
だって期待も心配も「してもらってる」んだから。

それでいて
「なんだか違う」という感じもぬぐえなかったかもしれない。

場合によってはそれゆえに、
期待に応えられない現実や、心配をかける事態に対して
負い目や罪悪感を背負ってきたかもしれません。

でも、もう大丈夫です。
今、あなたは大人なのですから。

こんなふうに理解してみてください。

そういうわけで期待も心配も
親が勝手に抱いた親自身の願望であり
親自身が持っていた不信です。

彼ら自身の願望と不信を
あなたというスクリーンの上に映写して見られていただけです。

親が勝手に、あなたの上にそれを見たかっただけです。

でもそれとあなた自身とは
本来ぜんぜん別。

たとえるならプロジェクション・マッピングのようなものです。
どれだけ映像を映されても
映された物体そのものには何の影響もないように

あなたというスクリーンそのものに
なにか義務や責任が生じるわけではありません。

あなたというスクリーン自身が、
映された画像のキャラ通りに
変化しなければいけないわけではありません。

映されてることはちょっとウザイかもしれないけど
しょせん映したい人が映しているだけのこと。
そんなことは気にせず
あなたはあなたで好きに生きていればいいのです。

そしてあなた自身が
何にも色付けされないニュートラルな自分の存在そのものを
自分で感じていくこと。

そんな自分の存在そのものを受けとめ信じる
本当の「愛」を
自分自身に向けていってあげてください。

 

 


この記事を書いた人

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大塚 あやこ

心理コンサルタント/講師/音楽家
一般社団法人ビリーフリセット協会 代表理事
ビリーフリセット・クリエーションズ株式会社代表取締役
 
東京芸術大学作曲科卒業後、アーティストのツアーサポートや編曲、アニメやドラマのサントラ作曲等を手がけ約20年活動。
音楽での燃え尽き体験をきっかけに、心理カウンセラーへ転身。
非合理な思い込みを外して本来の力を解放するオリジナルメソッド「ビリーフリセット®」を提唱し、人生の転機に直面した人を新しいステージへと導く個人セッションや講座を開催。「ビリーフリセットで人生が変わった!」という人多数。
カウンセラー養成講座も開催し門下の認定カウンセラーを多数輩出している。
現在はカウンセラー養成の枠を超えて「リーダーズ講座」として長期講座を開催。経営者やリーダー層からの信頼を得て、企業研修にも発展。企業向けオンライン講座「Udemyビジネス」で「はじめての傾聴」動画講座が登録者1万8千名を超えるベストセラーとなっている。

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