長野といえば、善光寺。
長野には何度も行っているのに、善光寺に行こうと思ったことは一度もなかった。
申し訳ないが、さしたる知識もなく興味もなく、さらに申し訳ないがたくさんの先入観でいっぱいだった。
なんかやたら有名でデカイお寺でしょ。
すごい大衆化してる感じ。俗っぽいんじゃないかな。行ってもあんまり感動しない気がする(すいません、、)
あたしは戸隠神社で!(と言って善光寺エリアをスルーして山の方へ車を走らせる・・笑)
エニアグラム・タイプ5ウィング4の私は「普通・通俗的・大衆的」ってやつが好きではない。
マニア気質というかマイノリティ志向というか、「本質」とか「原点」とかにやたらこだわる偏屈なところがある。
そういう点から、あんなに全国から人が押し寄せるような有名な場所は「私には関係ない」と思ってしまうのだ。
ところが!
今回、その認識が全く覆りました!!
ついに善光寺へ行った。
なんかすごいことになった!
帰ってきたら見える世界が全然変わってた。
なんと、これはおそらく善光寺のご功徳では。。。
すいません、善光寺ナメてましたっ!
そんな、私にとって初の善光寺参りのことを少し語りたいと思う。
夜明け時「お朝事」に参加
そもそも今回初めて「善光寺に行こう」と思ったのは、あくまでも「ついで」だった。
私の最愛のバンド「人間椅子」の長野公演に参戦を決めて、ライブが終わったら長野に一泊することにしたのだ。
まあせっかくだから、翌朝ちょっと善光寺でも行ってみてから帰りましょうかね。
それくらい。
(ほんと、すいません、、)
しかしね、そう決めたからには私はガチになる人間である。
善光寺についてネットで調べまくった。
歴史、経緯、宗派、法要、ご祈祷・供養。
ふうん、ご本尊は阿弥陀様かあ。
その中でも興味を引いたのは、宗派だった。
善光寺はなんと、無宗派でありながら天台宗と浄土宗2つの本坊が共存しながらお守りしているとのこと。
私はそこに興味津々になった。
Webサイトを見ていくと、「お朝事」と呼ばれる夜明け時に行われる法要は、2つの宗派が順番にお勤めをするとのことで
善光寺の一番いいところはここだな!?と、私のカンがピンときた。
私は仏教神道を問わず「朝のお勤め」参加が好きで、各地で宿坊や近隣の旅館に泊まっては、朝のお勤めに参加することがよくある。
通常の拝観時間には味わえない、その宗派の信仰のエッセンス、つまり神様や仏様の気配を濃いめに味わえるのがいいのだ。
善光寺では、さらに別途料金を払って「ご祈願」をお願いすると、一番仏様に近い「内内陣」まで案内されて座れるとのこと。
よし、早朝早起きして「お朝事」に参加!ご祈願依頼でさらに中へ!と決めた。
ちなみに、通常は善光寺門前の宿坊に宿泊すれば「お朝事」の手配や案内は宿坊でやってくれるとのこと。
でも私は前夜ライブなので、あえて宿坊ではなく、善光寺まで歩ける距離のホテルに泊まった。
なのでだいたいの手順をネットで調べて、時間を合わせて出発。
朝5時過ぎ、まだ真っ暗な星空の下、ホテルから善光寺まで歩くこと20分。
始まる頃には夜が明け始め、次々と人が集まってきた。
「お朝事」体験
善光寺の特徴的な行事として「お数珠頂戴」というのがある。
公式サイトから
善光寺住職である大勧進の御貫主【おかんす】様、大本願の御上人【おしょうにん】様が導師として本堂に出仕される際、その往復の道中にてひざまずく参拝者の頭へ、手にされた数珠で触れ、功徳を授けてくださいます。
ほんと私は天邪鬼で申し訳ないのだが、またこれも「なんかご利益くださ〜いみたいで、大衆的でなんかね〜」って感じがしたので、「これは私はいいやー」と思っていたのだ。
しかしそう思って適当な場所をウロウロしていたら、警備係のおじさんに「ほら、あっちで並んで!」と当たり前のように誘導されてしまったので、
結局他の皆さんと一緒に並んでひざまずき、御貫主様をお待ちすることになった。
やがて、お付きの僧侶に赤い和傘を差し出されながら、立派な袈裟をつけた御貫主様が本堂へ向かって歩いてきて、
沿道にひざまずいて手を合わせて並ぶ皆さんの頭に、一人一人お数珠でサッサッと触れていく。
私のところでも、南無阿弥陀仏と呟きながら頭の上にお数珠がサッサッと触れられた。
「ふーん、こんな感じなのねえ。まあ体験してみるのもいいかもね。」とクールに受け止めながら、本堂内に入ってすぐに法要が始まる。
最初に天台宗のお坊さんたちが勢揃いし、声明とお経が唱えられる。
次に浄土宗のお坊さんたちに入れ替わり、また違った雰囲気でお経が唱えられる。
木魚など、使っている鳴り物は同じなのだけど、双方でテンポが違ったり、声のトーンやテンション感が色々で面白かった。
私はお経のことも、宗派の詳しいこともそんなにわからないけれど。
でも大事なことはよくわかった。
つまりここではとことん、阿弥陀様。
この空間に、果てしない年月と人の思いの集積した「南無阿弥陀仏」が満ちているのだ。
お経とともに繰り返される「南無阿弥陀仏」の声を浴びながら私は
全ての存在が赦され抱擁される阿弥陀仏の気配に、やわらかく包まれるような気がした。
お朝事が終わって解散した後、すっかり明るくなった境内を見学した。
有名なのは「お戒壇巡り」。
本堂の床下にある真っ暗闇の回廊を、右手で壁を伝いながら巡る。
ご本尊の真下あたりに「極楽の錠前」というのがあるらしい。これに触れると、極楽浄土行きが約束されるという。
入ってみたら、本当にガチで真っ暗闇で視界はゼロだった。
早朝なので、他に人の気配はなし。
怖くはなかったけど、えっこれでいいのかな!?と戸惑いながら歩を進めた。
どこかで「錠前」に触れるのかなー??と思いながら歩いていたら、出口が見えてきた。
あらっ、見つからないまま終了!?
私は極楽には行けないって?
いやいや。
もうすでに今いるここが極楽だもん。
大丈夫っす。問題ないっす。
ということで次は、善光寺境内に2つある本坊のうち、天台宗の拠点である「大勧進」へ。
境内を見学しようと入ったら、また警備のおじさんに呼び止められた。
「ここ!こっちに並んで!」
えっ、えっ??
「珍しい事だから。これはいい事です。」と警備のおじさん。
見ればおばさまが一人、石畳にひざまずいている。
え、またお数珠??ここで?
いいから並んで!!みたいな勢いに引っ張られて、私もおばさまの隣に並んでまたひざまずく。
つまり、通常ない場所でイレギュラー的に、また御貫主様がお出ましのタイミングに出くわしたらしい。
まあラッキーを頂いておきますか。
というわけではからずも二度目。
また頭の上に「南無阿弥陀仏」お数珠サッサッ!をいただいた。
こうして私の初の善光寺詣りは早朝のうちに完了した。
ちなみに、善光寺の門前町は美しく品格があって、それまで勝手に描いていた先入観のような「通俗的でなんだかね〜」というイメージとは全く違っていた。(なんでそんなふうに思ってたんだろ、すみません)
地元の方々から誠実に大切に思いをかけられたお寺なのだということがよくわかった。
すべてはそれでいい
さて、異変に気がついたのは、新幹線で東京駅に着く頃からだった。
なんか車窓から見える東京の街が、美しいのだ。
何が美しいって?
なんというのだろう、全体というか、空気?光?エネルギー?
なんか「光射す」というのか、いやもちろんお天気は晴れだから光射してるんだけど、そうではない輝きを放っているというか。
そして駅を降りて、いつもと変わりない雑踏、行き交う人々、店舗が並ぶ地下街、駅の建造物・・・・ことさら美しいものは何もないのだけど、何かやさしい美しさを放っているのだ。
混雑した電車の中にいる人たちのことも、これまでだったらなんとなく鬱陶しい感じや、変な人、疲れてる人、近づきたくない人・・・みたいな受け止め方をしていた(ということに、今になって気づいた)だろう。
しかしこの瞬間、どんな人のこともなんだか健気て愛おしい一人一人に見えるのだ。
なにこれ、なんて優しく美しい世界なの・・・!?
全てが何か平和で愛おしい「人間の営み」として見えているような不思議な感覚。
その感覚を一言で言うなら
「すべてはそれでいい」
なのかもしれない。
「すべてはそれでいい」
これは私にとって、今年一番腑に落ちた、大きな変容の鍵となった言葉である。
そのあたり書いてあるのがこちら
上の記事でははっきり書いていないが、そこには「南無阿弥陀仏」という概念がようやく実感できたことも深く影響している。
私は特定の宗派ではないので専門的なことは知らない。
けれど私にとって「南無阿弥陀仏」とは「すべてはそれでいい」ということだ。
この絶対的な赦しと受容。
このことが、いかに心に救いをもたらすものか。
何より私自身が、本当にこれで救われた実感がある。
東京駅に着いて、さらに電車に乗って鎌倉駅に着いて、さらに道を歩いて、お店に入って・・・その間ずっと、街も人もすべては美しく、平和で、愛おしく、それでよかった。
みんなそれでいい。
なんて美しい世界。
どこかでは戦争をやっている。
政治の世界ではおかしなことが渦巻いている。
嘘くさいも、キナくさいも、諸々あるだろう。
でも今ここでこの時、ここにいる私たちは平和で、一生懸命で、楽しんで、生きている。
ああ、大丈夫だ。
私たちは大丈夫だ。
平和ボケ?
いいじゃないか平和ボケでも。
今、ここは平和なのだから。
そしてもう一つ、善光寺で学んだことがある。
それは「衆生済度」。
老若男女、善悪、貴賤を問わず、どんな人をも救う・・・という願い。
だから善光寺は昔からこれほど多くの人が心を寄せてきたのだ。
ひねくれ者の私が先入観で「大衆的なんじゃないの?」と訝ったのは、ある意味その通りかもしれない。
だって、みんなのためのお寺だから。
それが「あらゆる人」に向かって開いた姿だから。
で、それの何が悪い?
いや、どこも悪くはなかった。
むしろ私に必要なのはその感覚だ。
そうだ、私の理解では「衆生」とは「どんな人も」ということだ。
衆生済度。
南無阿弥陀仏。
どんな人も救われますように。
いや、既に救われている。
すべてはそれでいい。
これ以上の真理があるだろうか。
それは宇宙の愛であると私は思う。
そこへの遥かな憧れが、私にはある。
私は今、日本人というものに絶望を感じている。
それでありながら、それでも日本人というものの深い本質を信じようとしている。
この日、善光寺から帰ってきて垣間見せてもらった「光る世界」の姿から、
私はもう一度、希望を灯すことができたと思う。
これは善光寺の御功徳、と受け取ってみる。
きっと「お数珠2回」も強力に効いていたのだ、と思ってみる。
善光寺、ナメててごめんなさい。
ありがとう、善光寺。