ビリーフのことを学びはじめると
「うわ、自分の中にこんなビリーフが!!」
と見えてきたり
気がついたりするようになります。
参考:ビリーフとは
それはすばらしい進化だと思う。
自分の内側のことが
なんにも見えなかった時に比べたら、
それはもう
全然違う場所にいると言ってもいいでしょう。
でも、そこでね、
そのビリーフに恐ろしくなったり
気分が悪くなったりするのだとしたら
まだビリーフと自分自身に
距離がとれていないということ。
つまり、ビリーフ=自分だと
まだ思っているということなんだね。
その奥には
「ビリーフは悪いものだ」
「ビリーフがあったらダメだ」
「ビリーフをなくさなければ!」
という思いがあるかもしれない。
それはもう長年刷り込まれた「善悪」思考のクセだから仕方がないのだけど。
でも、ビリーフリセットの本意はそうじゃないんです。
ビリーフリセットは
「ビリーフが無くなる」ことが
目的なのではありません。
「ビリーフ撲滅運動」じゃないんです。
肉体を持って人間やってる限り
ビリーフはあります。
ビリーフとは、別名「自我」のことです。
人間やってるってことは
自我とともに生きるということです。
でも、大事なことは
ビリーフ(自我)=自分
ではないと知ること。
ビリーフがあった、また出た。
それはいい、と。
出ますよ、そりゃあ人間だもの。
生まれた時から刷り込まれた習慣のようなものだからね。
でもね、ビリーフはあくまでも「そういう考え」です。
自分自身じゃありません。
そのことがわかっていれば
どんなにヤバいビリーフがあっても、出ても
怖くもないし、気持ち悪くもない。
だってそれは単なるそういう「考え」であって
事実でもなければ
自分自身でもないから。
そのことがわかっているかどうか。
ビリーフをちゃんと見られた上で
ビリーフとは別の
「もっと大きな自分」のリアリティがあるか。
それが大事なのです。
ビリーフリセットは
「ビリーフを撲滅すること」を
意味するのではありません。
ビリーフにたいした意味がなかったことに
気がつくことです。
ビリーフというもののバカバカしさに
笑えちゃう自分、
になっていくことです。
ビリーフというものに直面し、見抜き、
突撃するのはそのためです。
直面し、見抜き、突撃し、
リセットしてはじめて、
ビリーフというものの実体のなさが腑に落ちます。
それがわかると、
ビリーフ(自我)を越えた
「もっと大きな自分」というもののリアリティも
確かなものになってきます。
その感覚がわかるようになるための
練習のようなものが、
ビリーフリセット体験だといえます。
ビリーフを撲滅するのではなく
ビリーフに怯える必要のない自分に戻る。
そのためにこそビリーフリセットはあります。
参考記事:
ビリーフはなくさなくてもいい