私は、音楽家の人たちが好き。
愛おしいといってもいい。
音楽というその瞬間に全身を投げ込んでいる時の音楽家は
なんて素敵なんだろうっていつも思う。
裸の魂が現れるような。
いのちの炎がゆらめくような。
元持つセクシュアリティが匂いたつような。
音楽と一体になっている時の音楽家には、
そんな魅力が奇跡のように現れる。
でも一方で
音楽をやっていない時の音楽家にも、
私は感じることがあって。
生きづらさ、不器用さ、しんどさ・・・みたいなこと。
強そうに見せているその奥の
繊細な怖れと、やるせなさ。
もちろん、全員がそうというわけじゃないし、
私が勝手に憶測して決めつけることでもない。
わざわざ踏み込むことでもない。
けれど、私は昔から
音楽家の人が幸せそうか、そうじゃなさそうかは
なんだかいつも気になっていた。
なんでこんなに辛そうなんだろう。
なんでこんなに自己肯定感低いんだろう。
そんなふうに見えることもけっこうあって。
それは多分に投影であって
他ならぬ自分自身の姿であったのだと思う。
まずは自分自身を救いたかったのだと
今となってはわかる。
だから私は、いっぺん音楽を横に置いてでも
心理の道に来て
そのカラクリを解き明かそうとしてきたし、
それが解けた今は
かなり自由な気持ちで生きることができている。
私にはそういう必然があったのだと思う。
だからこそね、
かつての私と同じ場所にいるかもなあ
って思う人のこと、
わかろうと思えばわかる。
そうであったとしたって
私はただ見守るだけだけどね。
でもやっぱり、音楽家の人たちのこと、好きだから。
その魅力も光もすごくわかるし
同じだけ、痛みも闇も、私はわかるよ。
って、心の中で、言ってる。
その魅力にひっそりと心躍らすこともある、
それと同時に
その痛みにひっそりと切なさをかみしめることもある。
両方込みで、私にとっては愛だから。
そんなふうに
私は音楽家の人たちのこと、見てる。
もちろん、私が何か余計なお世話をする筋合いはない。
ご本人が幸せなら、それでいいのだし。
心がどうたらこうたら、
そういうこと、関係ない人は一生関係ないですし。
私はただニッコリと
その場で思いつくままに関わっているだけ。
それでいいのだと思う。
でも、実は密かにもがいている人がいるのなら。
ほんとは何かをつかみたくて
探している人がいるのなら。
私はその人に差し出す浮き輪は持っている。
そう思っています。
そちらから手を伸ばしてくれれば
私は浮き輪を投げることができる。
いつか必要な時に、
ここに私という人がいて、
浮き輪を持っている、って
知っておいてくれたらうれしいなあ、って思う。
だからとりあえず、旗だけは立てておく。
音楽は私の重要ないのちのエネルギーだから。
だからこそ、それを共に分かち合っている
音楽家の人たちが、本当に愛おしい。
そして、みんなの幸せをささやかに願ってる。
そんな愛を
私はひっそりと胸にしまっています。
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