本当にほしいものは?
突然ですが、幸せって何?
たぶん多くの人が本質的に求めているもの
それは
安心、満たされ、大丈夫
なのではないかな?と思います。
それを一瞬一瞬感じられているかどうか。
感じられているならその時
その感覚を「幸せ」と
いうのではないでしょうか。
安心、満たされ、大丈夫
いろいろあるけど、結局それが
ほしいものではないですか?
そして私たちはずいぶん長い間
それを得るために何かをする必要がある
と思ってきました。
コレを得られたら
アレがこうなったら
コノ人がああなったら
アノ人がそうしてくれたら
ココがそう変わったら
ソレを達成したら
ココまで認められたら
そうなったら
安心、満たされ、大丈夫
が得られるはず。
だから、そうなるために
ああして、こうして、こう言って
コレはしないで、アレもしないで・・・
と色々考えては
努力したり我慢したりがんばったり
してきました。
安心するにはたった一つだけ
でも私、最近やっとわかってきたのですが
安心、満たされ、大丈夫
を感じるためには、たった一つだけ。
すべてを
「ある」と「いい」にするだけ。
その時、心は一瞬にして
安らぎの周波数にジャンプします。
自分の中にも、自分の外にも
コレがある、アレもある
こんなのもある、そんなのもある
キレイなものからヒドイものまで
いい悪いつけずに全部
あるものを「あるもんね」とするだけ。
そして「それでいい」とするだけ。
どんなに良くてもひどくても
きれいでも汚くても
それでさえ
「あっていい」とすることです。
あるってことはあるもんね。
あって、それでいい。
もちろん好き嫌いはあっていい。
嫌いなことさえ、それでいいからです。
自分はそれを好きじゃなくても
でもそれ自体がそうであることは
ほっておける。
なんとかしようとしない。
それが「あっていい」。
ということです。
それもいいんじゃないか。
それもありなんじゃないか。
まあいいんじゃないか。
なんでもいいんじゃないか。
そんなアホみたいな
ボケと紙一重のヨイヨイ仙人(誰!?w)
のようですが(笑)
でもヨイヨイも一つの智慧かもしれないよね。
24時間そんなじゃなくてもいいんです。
ほんのひと時、そんな心境になれたら
心も体もゆるんで
安心、満たされ、大丈夫
がやってくるものです。
安心できない人はコレをやっている
安心できない、満たされない、
ダメになっちゃうどうしよう
つらい、しんどい、ヤなことばかり
という人は、もれなく頭の中が
「ないないない」
「ダメダメダメ」
になっています。
よく「グラスの例え話」されますね。
グラスに水が半分入っている。
それを
「半分しかない!」と思うのか
「半分もある!」と思うのか
というやつ。
そういうことです。
自分の頭の回路が
心のトーンが
「あるある、大丈夫」なのか
「ないない、ダメダメ」なのか
そこが大きな分かれ道!
幸せを感じられるかどうかの鍵は
そこにあります。
究極にパワフルな「あっていい」は・・
実はさらに
究極「あっていい」にすると
めちゃくちゃパワフルなものが一つあると
私は思ってて。
それが「死」。
自分でも他人でも。
死ぬことさえ
それもいいんじゃないか。
それもありなんじゃないか。
って、「あっていい」にしてみると
あら不思議。
圧倒的に
安心、満たされ、大丈夫
がやってくるのです。
「死」もまた「あり」にした瞬間
今ただここにある「生命」が
ゴゴーッとリアリティを強めてくるからです。
生命をダイレクトに感じている時、そこに
安心、満たされ、大丈夫
があります。
自分の生命の実感を信頼できた時
世界や宇宙や大きな流れというものを
信頼できます。
それが「大丈夫」という感覚です。
よくね、事故や病気で生死を彷徨った人とかが
今生きているいのちに目覚めて人生観変わっちゃった!
という話を聞きますが
そういうことなんだろうなと思います。
そういう人って、その後が強いんですよね。
不安だ不安だ言ってる人は
いっぺん死んでもいいことにしてみるといいかもしれません。
まあ思考の実験ですから。
ほんとに死ねと言ってるわけじゃありません。
「大丈夫」に立って「どうしたい?」が始まる
そうやって、すべてを「あり」にして
安心、満たされ、大丈夫
を深く感じている時
初めて「0(ゼロ)」ともいうべき地点に
立つことができます。
「ないないない」
「ダメダメダメ」
というマイナスの地点から
「あるある・大丈夫」という地面に
やっと立ったということ。
その地点においてこそ
全てが大丈夫なのだったら、どうしたい?
という
純粋な「したい」の世界が始まるのです。
さあ
すべてを「ある」と「いい」にするだけ。
全てが大丈夫なのだったら。
じゃあ、どうしたくなる?
なにしてみる?