自らコンテンポラリーダンスもされる心理学者・尾崎真奈美さんの言葉に
こんなのをみつけた。
確かにコンテンポラリーダンスでもいわゆる暗黒舞踏みたいなのはピンとこないし、悲しみや苦悩を描く身体表現もあまり好きではない。
別に無理して天使ぶっている訳ではない。
人間としての苦悩はもちろんあるんだけど、それを表現しようとしても必ず昇華されていってしまうのだ。
圧倒的な勝利に満ちた輝きしかでてこないのだ。
それが直接体験なのだからそれしか表現できないのだ。
暗闇に共感しないのだ。
地上の苦しみをどこか遠くから覚めた目線で眺めているのだ。
すべてを知っているにもかかわらず一緒になってドロドロしたりしないのだ。
役割りの違いなのだろうと思う。
そう、そう! 役割の違い、ね〜。
どっちがいいとかダメとかじゃない。
音楽をやる立場としての私も、どうしても光や透明なポジティブを志向する。
ドロドロになれない。
毒やトゲや狂気・・・などの鬼気迫るエネルギーを表現することができない。
やろうとするとけっこうつらい。
一時期は「やっぱりプロとして、そういうこともできないといけないんじゃないか」と思ったこともある。
でも、無理してやっても息切れしてしまったなー。
たくさん戦闘シーンの音楽を作っても、結果としてサントラのレビューには「静かな曲ばかり」と書かれたり(笑)。
そりゃそうかも。
自分自身、戦闘に燃えるようなメンタリティを持ってないし、作っていてもまさに
>地上の苦しみをどこか遠くから覚めた目線で眺めている
といったまなざしになっているかもしれないと思う。
一緒になってドロドロを煽れるような自分じゃないのね。
うん、でもそれでいいのかなって思った。
それぞれに役割ってものがある。
例えばドロドロが得意な人はそれによってできること、人の役に立てることがある。
そして、私には、私だからわかることがある、見えることがある。
だからできることがある。
それいいし、そんな自分でいいと思った。