目の前のことで精一杯になったり
やらなきゃいけないことに追われていたり
ほんとはどうしたいのかわからなくなったり
そんな時って
目線がすごく近くて狭いところにある。
たとえば、自分の安全。
目先の損得。
他人の顔色っていうのも
要するに目的は自分の安全だから。
やっぱり自分なんだよね。
そういうものって近くて狭いから
よけいに詰まったかんじや
目一杯なかんじになってしまう。
目の前に張り巡らした狭い柵の中で
ぐるぐるとループしてしまう。
そんな時
そのループの軌道を突破するために
まったく予想外の心の使い方がある。
それは
祈り。
1つめは「祈り」
自分のことではなく、
自分以外の誰かのことや
何かのことや、世界のことを
「こうなりますように」
「こうでありますように」と
ただただ、理想を描いて想像し
願ってみる。
心で感じてみる。
それが祈る心。
ああ、繰り返すけれど
それは自分のためではなく。
誰々さんがこうなってくれたら
私が楽になるから
「こうなりますように」ではなく。
「誰々さん」のことだとしたら
その人自身の最高、最善の幸せを
自分を差し挟まずに
最高に想像して、思う。
そう、自分を差し挟まずに。
「その人」でもいい。
「その場」でもいい。
「その件」でもいい。
「国」でも「世界」でもいい。
「こうなりますように」
「こうでありますように」
最高に美しく、幸せな
成長と栄えを
ただただ、望んでみる。
圧倒的に無力な自分として
自分には何もできないけれど
それでもせめて・・
の気持ちで。
その思いを、ただ
未知の未来へむかって
無限の宇宙へむかって
無心に投げる。
それが、祈り。
相手は神様じゃなくても
なんでもいい。
手を合わせるかどうかも
どっちでもいい。
ただ、その心になってみる。
その心になった時に
狭い「我」のループから
抜け出ることができる。
そうすると、不思議なようだけど
「ああ、私もやろう」って
新しい力が芽生えてくる。
「今の私でいいから
せめてできることをしよう」
って、目の前が少し明るくなる。
闇雲な消耗の連鎖に
ストップがかかるでしょう。
2つめは「意宣り」
そんなふうに
自分の「やろう」が芽生えてきたら
そこからさらに
「やろう」を「やるぞ」に高めていけたら
それが、意宣り(いのり)。
「意」とは
「やるぞ!するぞ!」の気持ち。
祈ったその先へと近づくために
自分にエンジンをかける。
大海の一滴、
砂漠の砂の一粒にすぎなくても
「やるぞ!」と、意を立てる。
その意を
未知の未来へむかって
無限の宇宙へむかって
無心に宣言する。
それが「意宣り(いのり)」なんだね。
祈りは
他へ広げていく愛であり、
意宣りは
内から立ち上がる意思である。
それは「女性性」と「男性性」
ということもできる。
どちらかだけではなく
両方あって完全。
2つの「いのり」を
心に呼び覚ますことができたら
自分自身の内に
確かな力を取り戻しているでしょう。
体はそこにありながら
意識は全く違う場所に立っている。
自分でありながら
世界とつながっている。
そこから違う未来が
拓けていくでしょう。