悲しい時、苦しい時、無意識に私達は「自分だけが悲しい、苦しい」と思いがちです。
悩んでいる時も「自分だけがこんなことで悩んでいる」と思ってしまって、そのことでますます辛くなったりもしてしまうのが私達です。
たしかに、そうやって感じている悲しさ、苦しさ、悩みはあなたが感じているものではあるけれども、実はあなた一人のものではありません。
私自身は「そもそも人間は、悲しく、苦しく、悩む生き物なんだ」と思っています。
人間に生まれるということは、いかんともしがたい悲しみや苦しみや悩みに、構造上、いったん呑み込まれなければならないということだと考えています。
そういうもんだ、と。
ある意味、けっこう悲観的な考えかもしれませんが、仏教的であるともいえるかもしれません。
私は特定の宗派には関わっていませんが、昔から仏教的な思想には馴染めるかんじがありました。
仏教には「煩悩」や「四苦八苦」という言葉がある通り、人間の闇や、苦しみの構造そのものを直視して深く受け止める土壌があります。
なおかつそのことに深い悲しみと共感、つまり「慈悲」の心を抱き、それでも仏性という光をとことん信じる、まさに闇も光も一つに包含して愛する、その懐の深さをとても感じます。
いわゆる現代の「スピリチュアル」といわれる世界では、光や愛、宇宙や天使、波動が良い、エネルギーが高い、ワクワク、ワンネス、など、「光」の方ばかり求める方向に走りがちな傾向も一部ありますが、
私はやはり、「光」ばかり見るのは片手落ちだと思うのです。
たしかにそれはすばらしいし、私たちの本質はそっちだと思う。
けれども一方で、人間として生まれたなら誰もが背負う闇が確かにあり、自動的に取り込まれてしまう苦しみの構造、つまり「煩悩」というものの堆積もハンパないのです。
これを曖昧にしたまま直視せずに、なんとなく光ばかり求めていてもしょうがないのではないか・・・そんなふうに感じてなりません。
そしてその闇とは、知らないうちに誰かにエネルギーを送ってもらって済むものようなものではなく(それで済むものもあるとは思いますが)、やはり自分で「これなのか!」と見抜いて自ら光をあてていく、ということをするのが本質的なのではないか?
などと考えてしまいます。
これってめっちゃハードコアな(笑)考え方かもしれませんけど。
でもね、そうやって自分の悲しみや闇に自分で光を当てた人が、人の悲しみや闇にも、切なさをかみしめつつ「そうか、しかたがないよね。」と受容することができる・・・
つまりそれが慈悲というものだと思うのだけど、そういう心になっていけるのではないかと思います。
そういう私の考え方のベースがあるので、ビリーフリセットはまさにそれをやるツールなのです。
煩悩、闇の正体、苦しみの構造・・・それは実は「自我構造」そのものなのですが、それを「ビリーフ」という概念でつかむ。
それをちゃんと見て、理解して、脱出する。
いわば、かなり「自力」の道なのかもしれないです。
そういう意味ではフワフワしてないです。
泥くさいです。
そして、そうやって脱出した分だけ、自然と光が現れる。
磨いたら、光る。
軽くなる。
煩悩を落としたら、元は光であり、空であったことを知る。
ビリーフリセットはそういう考え方です。
そういう意味で、仏教的な考え方と通じるところがあります。
私は僧職ではありませんし、本当にひっそりと自分にできる範囲のことをやっているにすぎませんが、志においては
人の闇に共感する慈悲の心を大事にしながら「煩悩を解体する」ということに現代の方法でチャレンジする、そんな役割をさせていただければ・・・と願っているつもりです。
慈悲という言葉は「悲しみを慈しむ」と書くんです。
そこに私は、ただキレイなだけじゃない、すごく深い愛を感じます。
愛とは「好き」が最高最大になったやつ、じゃないです。
好きでも嫌いでも
光でも闇でも
ぜんぶ「そうか、そうだよね」とうけとめること。
時に嘆きながら
身を切られるように
それでも「そうか、そうだよね」と慈しみ包含すること。
そんな「慈悲」の心が、
愛の定義として、私は好きだなあと思います。