これまでの時代は
「一つに絞れ!」みたいなことが
わりと正しいとされてたかもしれない。
「二足のわらじ」とかって
あんまりよい意味に使われてなかったり
「二兎を追うものは一兎も得ず」とか言って
明らかにダメ扱いされてきたり
「一社に勤めたら副業禁止!」とか
「一つの流派を習ったらよそ見はご法度!」
「一人の人を好きになったら他の人を好きになるのは罪!」
とかって、してましたよね。
でも、これからの時代
必ずしもそうじゃないと私は思っています。
一つじゃなくたっていいじゃない。
「どっちか」じゃなくて
「どっちも」だっていいじゃない。
人間はたった一つで括れるほど狭くない。
たった一つに絞らなきゃ枯渇しちゃうほど
貧しくない。
私はそう思います。
でも「一つに絞らなきゃいけない!」
って思ってしまう理由は
全体分量というのが何か一定数に限られていて
それを2つにしたら半分に減っちゃうし
4つにしたら4分の1に減っちゃう・・・
っていう思考からくるのかもしれないね。
だから、アレもコレもしたら
どんどん減っちゃうでしょ!
ていうことなのかもしれない。
でもそれは「物」の理屈なんだよね。
そういう
モノが減ってく前提の世界観を
欠乏の論理という。
これを信じてると怖いの。
だから、減るのが怖くて
みんながどんどん縮こまっていく。
減らないように、ダメにならないように
監視して縛るようになっていく。
でもね
物じゃない、エネルギーや心や愛に関するものは
それとは別の理屈が働いている。
減らないんだよ。
1つを2つにしたら、2つに増えるの。
分けたら、減るんじゃなくて
増えるの。
自分のをあげたら減っちゃう
んじゃなくて
自分のと、相手のと、
両方に増えるの。
そればかりか
自分と相手と、さらにその向こうの
「まわり」にも
きっと何かが増えるの。
自分のエネルギーの注ぎ先を
1つから2つにしたら
自分という全体が
2つ以上の何かにもっと増えるの。
それが波及して
まわりにも何かが増えるの。
それがエネルギーとか心とか愛の理屈だよね。
それって、豊かさの論理なんだよ。
豊かさの論理を信じてると
いろんなことが大丈夫なんだ。
もちろん、物理的には限りがあるから
「物」は減るかもしれない。
でも、物じゃないものは
確実に増えているはず。
そこを観れるかどうかだよね。
だからきっと
「どっちも」ほしかったら
「どっちも」手に入れたり、やったり
してみたらいいんじゃないだろうか。
「減っちゃう、なくなっちゃう」
という心がなければ
意外とうまくいくんじゃないだろうか。
だからってもちろん
「一つに絞る」がピンとくるときは
思いっきり絞ればいいんじゃないかな。
そういう集中が必要な時だってあるものね。
これもまた
「一つに絞る」だけが正しいのだ
とか
「どっちも」にするべきなのだ
とか
そういう「どっちか」じゃなくてさ
時と場合と自分の気分で
「どっちも」でいいじゃない
って思うわけ。
どっちも
どっちでも
ほんとにいいんだから。
大丈夫だよ。