私たちの日常は、
日々の仕事や勉強、
家事・雑事等のあらゆる必要な活動のほか、
食べる、飲む、しゃべる、触る・・・
あるいは時間ができると
テレビ、パソコン、ゲーム、音楽、本、などを、
見る、読む、聴く、する・・・・
つまり、私たちはほどんどの時間を
絶えず五官を使って過ごしていることになる。
何かを見て、感じる。
何かを聴いて、思う。
何かをして、充足する。
あるいはしない。
それは日常きわめて当たり前のことなのだけど、
よく考えるとそれらは全部
「自分以外のもの」との接触なのだ。
あらゆる知識も、情報も、音楽も、映像も
すべては他人からの声であり、
おいしい料理やお菓子やお酒も、
香りのいい石鹸やアロマオイルも・・・
他の物による五官の刺激だ。
それを受けて気持ちが
上がったり下がったりするのは、
その刺激に対して反応しているということだ。
今的な言葉で言えば
「インプット/アウトプット」とも言える。
生きているということは
そのように自分以外のものとの接触や
交流をしていくことであると
いってもいいのかもしれない。
では、たとえば。
それら一切の刺激、
無数の「他人の声」を全て止めたら何が残る?
何もしない。見ない。聴かない。動かない。
それって寝てる時?
いや、起きていてその状態になってみたら。
退屈? 手持ち無沙汰?
恐ろしいくらいの空白?
気の遠くなるような孤独?
それらの刺激を止めて
五官の活動を休めた時
そこに残るのは、自分一人。
自分自身そのもの。
本来の自分。
「素」の自分。
ただここにいるだけの
今生きているだけの自分。
何も持たない
何も価値をまとわない
ニュートラル。
あらゆる活動のすべての基盤
はじまり。
ただ座って
背中をまっすぐ伸ばして
お腹からゆっくり呼吸をして
目を閉じて
静寂に耳を澄まし
自分の身体の内側をぼんやりと感じて
浮かんでくる思いをそのままに
眺めて流していると
そういう「素」の自分を実感することができる。
それは決して「怖いこと」じゃない。
退屈でも孤独でもなく
むしろ安らぎやくつろぎであり
静かなエネルギーチャージであることが
やってみるとわかるだろう。
もちろん、生きているということは
自分以外のものとの接触や交流であり
刺激への反応の連続であるわけだけれども、
それだけでは置き去りにされていくもの、
ともすれば消耗していくものが
「素」の自分自身そのものかもしれない。
あるいはむしろ、
そういう自分を忘れたいからこそ
絶えず刺激を必要とし続けているのだとしたら
「そんなにも忘れたい自分て何?」
っていうことは考えてもいいテーマだと思うし、
むしろ本当に必要とされているのは、
その自分をかまってあげることなんだろうし、
しかしまあ、
そんな難しいことは考えずに
一切の刺激を止めて目を閉じ、
ただの自分と共に在る時間を作るだけで
思いがけず、
安らかで豊かな時になるのではないかと思う。
私はそういう時間がとても好きだから、
おすすめです。