「いやだ」と「ほしい」は
人間として生きるための原初のエネルギーだと思う。
「ほしい」はエンジン。
「いやだ」はブレーキ。
今日は「いやだ」について語りたい。
自分自身にとって危険なことや
自分を脅かすこと
自分の本来と違うことに対して
「いやだ!」と思うってことは
自分を守るためのブレーキになる。
車にブレーキが必要なように
自分にもブレーキが必要。
そのままいくと危ないよ、そっちじゃないよ!
という命からのメッセージが「いやだ」なんだと思う。
だけど、そのいやだを言えなくなっちゃってる人も多い。
言えないどころか、いやだなんて思っちゃいけないと
長年教育されてしまって
いやだと思うことさえできなくなっていたりする。
いやだなんて思ってないで
がんばらなきゃ!がまんしなきゃ!
私さえ吞み込めばいいんだから。
仕方がないんだ、こんなものなんだ。
そうやって自分のいやだを麻痺させてると
ほんとに危険だよ?
ブレーキ無視してるっていうか
もうブレーキ自分で壊しちゃってるようなものよ?
もうすでにそれだけ自分が浸食されて
すり減っているんだから
これからもずっといやだが言えずにそのままいったら
ほんとに潰れるか、死ぬよ?
まずちゃんと
「いやだ」って思っていい、と
自分に許可するところから始めよう。
やだったらやでいいんだよ。
だってやなんでしょう。
やなんじゃん。
やだって思っても大丈夫だよ。
そう思う自分が一番正しいんだよ。
自分一人で、今そこで
「やだ」って言ってみて。
ほんとに口に出しておもいっきり、
「もーーう!やだっ!」って言ってみて。
そこからなのよ。
そこから、そのどん詰まりデスロードに
針の穴くらいの風穴が開く。
ものごとを変えるために最初に必要なのは
「いやだ」なんだと、私は思う。
「今の現状・これまで」というものに対して
本当にもういやだ!と思うからこそ
なんとかして変えたいと思うんだし
変えようとするんだし
変えるために動きだせるんだ。
ちゃんと「いやだ」と思わないと
変える気力も湧いてこないよ。
逆いうと
変えなきゃならなくなるのが怖いからこそ
必死で「いやだ」を感じないようにしてたり
するのかもしれないけど。
変化なんていうよくわからないものなんかより
どんなに地獄のような場所でも
慣れ親しんだ今の場所の方が安心・・・
ていう心理って、人間あるしね。
でもそれは、緩慢に死に向かうことだと
私は思う。
自分という命が
伸びないまま、花も咲かないまま
なんの木になるのかもわからないまま
やせ細ってそこで立ち枯れていくようなものだと思う。
「まわりの誰か」という幻想を優先するために
自分の命は枯れてもしょうがないだなんて
それじゃ命がかわいそうだ。
だから、まずちゃんと「いやだ」と思おう。
「いやだ」って言おう。
やめたっていいんだよ。
逃げたっていいんだよ。
「逃げた」って言われたっていいんだよ。
言わしとけばいいんだよ。
そして
変化にむかって動ける自分の命を信じよう。
本当にいやなことをちゃんとやめられたら
次にどうしようかはちゃんと思いつくから大丈夫。
自分の命の智慧を信じよう。
大丈夫だから。
私はほんとにそれを願ってる。