今年2月に引っ越して以来つながっていなかったテレビのアンテナ線を、先日ようやく接続して、昨日3ヶ月ぶりにテレビをつけました。
ウチはもともとテレビを見る習慣がないので、それまでもあまり見ていなくて、
確か最後にテレビを見たのはお正月の駅伝だったかも。
・・・・ということはほぼ4ヶ月ぶりですね。
そんなわけで、面倒だからとつなぐのを放っておいても何の差し支えもなかったんですが、まあやっぱりそろそろ映る状態にはしとこうか、と。
で昨日、久しぶりに夜7時のニュースをつけてみました。
今日日ニュースはネットで十分という人も多々いるようですが、その理由の一つとして、「時間がもったいない」があると思います。
ネットなら自分の必要と思う記事を一目で選び、サーッと読んで情報を得る事ができますが、テレビだとアナウンサーがしゃべったり映像が出たり記者が中継したり・・・と、その何倍も時間がかかる。
その上「この件はあまり興味がないな」と思っても、次の件に移るまでとりあえずその時間はつきあって過ごさなければなりません。
情報を得るという意味では「効率悪い」というのも確かに一つの見方だと思います。
しかし、昨日久しぶりにテレビをつけてみて思いました。
逆に、それだけの時間をかけて、語られ構成され表されていくものを通して、感じられる「何か」もあるもんだな、と。
自分が「見ようと思って見るもの」「必要と思って求めるもの」だけではないものを、
ある意味「見るはめになる、知るはめになる」ことで、
予想外の何かが自分の中に入ってきたり、考えさせられたりすることも、ある。
例えばドキュメンタリー仕立てになっていたりすると、何十分という枠全体を使って起承転結の構成と映像の力で何かを表現しているわけで、それはその時間分つきあって初めて受け取れるものがあったりする。
とすれば、その時間はやはり必要なものであるのだなー、と
それはそれで「効率」だけで片付けるにはもったいない「何か」も確かにあるもんだなー、と思ったのです。
「時間芸術」という言葉があります。時間の推移とともに成立していく芸術。
音楽もそうだけれども、例えば長〜い交響曲、近現代だと1時間以上かかる曲もあったりして「いったい何でそんな時間が必要なの!?」と思うこともあるんだけれども、作曲家さん達はやっぱりそれだけの時間をかけて伝えたいこと、感じてほしいことがあったんでしょうねえ。
ということは、受け手にそれだけの時間つきあうことを要求することでもあり、
受け手は、それだけの時間をつきあって得られるものは何なのか、ということになる。
あらら、なんだか話が難しくなっちゃいましたが、ああ、テレビのことでした。。
なので、テレビは確かに時間がかかる。
だけど、それだけの時間をかけるからこそ得られるものがある時も、ある。
そんな視点もどこかに持って、これからも時々、テレビをつけてみたいと思います。