昨今、いろいろと感情を
掻き立てられている人も多いようです。
そんな今だからこそ
あえて、感情について
冷静に考察してみます。
「ゆるせない!」
その怒りは
本当の怒りだろうか?
「かわいそう」
その哀れみは
本当の哀れみなのだろうか?
それは本当の感情ではない
フェイク、あるいはカモフラージュ
の可能性があるよ?
というお話です。
感情のカモフラージュ
遠く離れた外国で起こっている事態
自分が直接関わっているわけではない
芸能界や政治の世界のアレコレ
画面の向こうに映し出される
「世界」や「世間」の動乱
ネットで流れてきた
「かわいそうな人たち」の姿
・・・など。
そんな、自分からは
とても「遠いこと」について
激しく感情が揺さぶられて
怒っているのだったら
その怒りは本当の感情ではなくて
カモフラージュ反応
である可能性が高いかもしれません。
何をカモフラしてるか。
もっと自分に関係ある
「近いこと」への怒り
をカモフラしています。
怒りの正体
あなたは本当は
身近な人に怒っている。
ひどい扱いをされたように
感じている相手に怒っている。
今置かれている環境に
怒っている。
置かれている環境で
ずっと我慢をしていることに
怒っている。
人に愛されないような
後ろ暗い自分自身に怒っている。
そんな状況を変えられない
自分自身に怒っている。
それが、より本当に近い感情。
けれどその感情のことは
なるべく見ないようにしている。
そんな感情を感じて認めてしまうのは
危険を伴うことだからです。
本当に
今ある環境や周りの人間に
怒りを持ってしまったら
今とりあえず得ている居場所が
なくなってしまう
そんなことになるのは怖い。
無理。
怒りを我慢しきれず
ほとほと嫌になってしまったら
今の関係や環境を変えなければ
ならなくなってしまう
そんなことになるのは怖い。
無理。
関係や環境を変えようと
思ってしまったら
勇気と決断と行動が必要になる
そんなことをするのは怖い。
めんどくさい。
無理。
何か余計なことをしてしまったら
後ろ暗い自分がバレて嫌われ
独りぼっちになってしまう
生きていけなくなってしまう
そんなことは耐えられない。
無理。
そんな恐怖感と無力感こそが
いちばん感じたくないものだから
自分に直接関係する
「近いもの」への怒りは
感じないようにするのです。
それについては
我慢、割り切り、自分責め
という術を使って麻痺させた上で
まずは自分から最も「遠いもの」
に対する怒りに変換します。
「遠いもの」なら安全。
実益も実害もなく
抑圧した感情の出口がみつかるから。
そして現状はそのまま維持できる。
多大なメリットがあるのです。
本当に感じたくない感情を
感じないために
「自分の外」を見て
それに対する怒りに変換する。
感情のカモフラージュとは
そういうことです。
本当の感情を
感じないための、感情。
とりあえずは乗り切れるけれど
「本当のこと」はずっと
スルーされたままなので
いつまでたっても心は晴れません。
同じ現実のループが続き
いつも外側の遠いところに
腹立つこと、許せないことが
次々と生じます。
それのおかげで
いつも自分の「本当」からは
目を逸らすことができます。
現実を変えたくない人にとっては
望みが叶っているわけです。
「かわいそう」の正体
では「かわいそう」について
見ていきましょう。
直接関わりのない
自分から「遠いもの」に対して
「かわいそう・・・」と泣けるほど
悲しくなったり哀れみを感じたりする時
本当にかわいそうなのは
自分なのです。
本当に悲しくて泣きたいのは
自分なのです。
助けてあげなくちゃ!と浮き足立つ時
本当に助けてほしいのは自分なのです。
しかしそんなことは
思ってみたこともありません。
長いことあなたは
自分の悲しみを感じないように
してきたし
泣いてはいけないと思ってきたし
かわいそうな自分、なんていう
みじめさは絶対に味わいたくなかった。
ずっとずっと何十年も
どれほど悲しみと痛みを
感じないようにしてきたでしょうか。
その総体が無意識領域に
積み上がっているほど
今目にする「世界」や「誰か」といった
「遠いもの」が
かわいそうで悲しく見えるのです。
遠くを見ていれば
自分を見なくて済むから。
誰かのことを「かわいそう」
と哀れんでいれば
自分はかわいそうな側へと
堕ちなくて済むから。
哀れみを「与える側」に
い続けることができれば
自分自身のみじめな思いを
感じなくて済むから。
それが最大のメリット。
心の仕掛けはそんなふうに
うまくできているものです。
そう思えばつくづく
自我にとっては
感じたくないことを感じない
ということが
人生における至上命題であり
最大目的になるのだなあ、と
思います。
感じなくてすむためなら
どんな不幸だって受けて立つ!
それぐらいの勢いで
自我というものは
必死の防衛をするものなのです。
けなげですね。
そして、ご苦労さまです。
しかし、私たちの本質である
成長したい魂さんにとっては
その自我の防衛の
必死のがんばりこそが
まことにご迷惑さま
であったりもするのです。
根源への旅
さて
さらに深いところへゆきましょう。
このような怒りや悲しみ・・・
これらの感情の根源はさらに
封印された原初の感情まで遡ります。
その怒りも悲しみも
乳児〜幼少期の親との関わりで
感じたものが発端になっています。
決して神様でもなく
完璧なわけでもない
親もただの若い人間の一人ですから
幼い子供にとっては
くれなかった、もらえなかった
された、られた、といった
不満や理不尽さを感じることがあっても
おかしいことはありません。
それを「怒り」と名付けたとして
しかし幼い子供は
そうした怒りの感情を
当の親に対して持つことは絶対にしません。
感じなかったことにして
深く深く自らの内に沈め
一切の理由を
自分の罪として被るのです。
そして
生まれてきてしまったこの世界への
わけのわからない恐怖と絶望。
か弱い自分の圧倒的な無力。
切り離された孤独、
そしてみじめさ。
私たちが最も感じたくないものは
これなのです。
切り離した自分とは
これなのです。
この感情を感じないために
この自分をないことにするために
以降の人生
あらゆる防衛対策としての行動が行われ
感情のカモフラージュとフェイクが
折り重なり
そして私たちは
自分がわからなくなります。
わからないままに
ないことにしたものは
問題という姿をとって現れ続け
同じ苦しみが
繰り返されることになります。
そんな苦しみから逃れようと
他人と世界という
「遠いもの」ばかり見て
「遠いもの」に心を動かすことで
代償行為を続けることになるのです。
そんな合点のいかないループ人生に
疑問と苦しさを感じた人が
このループに終止符を打つ道へと
参入していきます。
それが、自分に向き合うということ。
自己探求の道。
自分に向き合うということは
ここまで積み上げた防衛システムを
逆回しで遡って見ていく
ということなのです。
自分に戻る道
外に向けていた目を
自分に向ける。
「誰がどうした」ではなく
「私はどうなのか」を感じる。
「遠いもの」に向けていた感情が
「自分のもの」だったことに気づく。
自分の本当を
ただそのまま受け取る。
ああ、怒っていたんだ。
ああ、悲しかったんだ。
ああ、寂しかったんだ。
ああ、怖かったんだ。
それを受け取って
認めきったなら
ああ、ほしかったんだ。
がやっとわかる瞬間がきます。
ほしかったんだ
ほしかったんだ
本当はこれが
ほしかったんだ
安心がほしかったんだ
平和がほしかったんだ
つながりがほしかったんだ
そうやって
本当に欲しかったものに気づいた時
やっと自分の中心に
自分が戻ってきます。
それを「癒し」と言ったりも
するのでしょう。
そこに至るまで
私たちは
遠いところを見て
心を飛ばす旅を続けてゆくのです。
それも人生。
悪くはないでしょう。
本当は
戻る場所が誰の内にも
ちゃんとあるのです。
それが自分の「本当」。
そこに戻りたいかどうか。
戻るためには、一見真っ暗に
見えるかのような道のりに
飛び込む勇気が必要なのだけれど
そこまでしても
戻りたいかどうか。
その選択もまた人生。
どちらでも悪くはないでしょう。
自分自身の「本当」へと至る
その道をゆきますか?
「本当」を回避したまま
カモフラージュで逃げ切りますか?
好きな方でどうぞ。