自分の内側に目を向ける人は
人生というゲームの「プレイヤー」になれます。
つまり自分でゲームを「する人」です。
自分でゲームをする人は
自分の感覚と意思に従って
自分の選択でコマを動かしているという
実感を持つことができます。
その結果がいろいろあったって
それもまた楽しいゲームのプロセス。
また次の一手を考えて動けばいいのだから。
また流れに乗っていけばいいのだから。
そんな「プレイヤー」として
人生というゲームをやるための鍵
それが
自分の内側をみつめる
自分の心を見て、知る
自分の心という謎を解く
という姿勢です。
反対に、
自分の内側を見ずに
外側
つまり他人や周りや世間や
結果や形
自分じゃないものすべて・・・
そればかり見ている人は
ゲームの中の「キャラクター」になって
翻弄されざるを得ません。
される
言われる
思われる
させられる
くれる
くれない
もらえる
もらえない
なった
ならない
こうされちゃう
こうなっちゃう
なんでこうなっちゃうの?
よくも悪くも
そんな受け身な「キャラ」として
つまり、そのゲーム世界の真ん中に巻き込まれて
いつも「される、られる」側として
何が起こるか次の展開もわからない世界に
怯えて、追われてゆくしかないのです。
ゲームの「中のキャラ」は
誰かが作った世界の中で
翻弄されて走り回っているだけの
無力な存在です。
自分の内側をみつめる、という目がないと
どうしても人生はそのように
わけもわからず「される・られる」だけの
安心できない世界になってしまいます。
なぜなら、この現実・人生は
自分の内側と外側とが
絶えず混ざり合って作り上げられていくもの
といってもよいものだからです。
ある意味「すべてが内側だ」
という見方もありますが、
ここではいちおう
「半分ずつ」と言っておきましょう。
その半分である「自分の内側」が
自分自身の人生を作っているわけですから
その自分の内側を知らないということは
人生の作り方の、少なくとも半分を
知らないということに等しいわけです。
自分の内側を「見ない、知らない、わからない」と
自分の人生を自分で作っている実感がわからくなります。
自分のあずかり知らぬ
「こうなっちゃう」人生です。
だから、それは自分の人生のようでいて、
実はまだ自分の人生ではありません。
自分がやっているゲームの「プレイヤー」には
なっていないということです。
どこか何か知らない
大きな「誰か」がやっている「世界」の中で
翻弄されて一喜一憂する「キャラクター」です。
自分が自分の人生のプレイヤーになるためには
まず
自分の内側を見る、知る、わかる
という「基礎体力」が必要です。
コツコツとした積み重ねと練習によって
自分の内側を見て、知って、わかってくると
自分の内側の使い方がわかってきます。
現実を、内側と外側との「化学反応」として
見ることができます。
だから、現実を動かすためには
片側の要素である「内側」をどう使えばよいか
わかってくるのです。
そうなると、人生は
キャラクターとして「させられる」ものではなく
自分自身がプレイヤーとして
「プレイする」ゲームになってきます。
しかし、私たち人間はどうも長い間
自分の内側を見る、知る、わかる
ということに関して
絶大な恐れを持って生きてきた過去があります。
「そんなことは怖い、見たくない」
という恐れです。
だからこそ
内側を見ないために、
どこまでも外へ外へと目を向けて
キャラクターとして走り回ることになります。
これこそが
プレイヤーになることを難しくさせる
一つの罠であるといえます。
だからこそ、
その恐れを打ち破って
自分の内側を見る、知る、わかる
ということに飛び込んだ人は
プレイヤーとして自分のゲームをプレイする
という楽しい人生を
始めることができるのです。