今年は私、「魂」の話もしていこうと思っています。
「魂」という視座があるとないとでは、今ここを生きることの深さも、人生に何を求めるかという次元も変わってきます。
これまで私が力を入れて語ってきた「ビリーフリセット」という概念も実は、その視座があればこそ可能なことなんですね。
この肉体だけを自分だと思っている状態だと、ビリーフと距離を置いたり、リセットしたりは、なかなか難しいです。
私がご提供したい講座やセッションなども、本質的にはその視点があってのことなので、今年はそのあたりもう少し明確にしていきたいな、と。
それが私の今年の方向性のようなものです。
というわけで、その第一歩は
「魂」という視点がなぜ必要か
です。
人間は肉体なのか?
さて、一番基本の基本で必要な前提です。
私たちは自分のこと、あるいは人間というもののこと、何だと思ってるでしょうか?
1.自分ってこの身体でしょう。
両親の細胞からたまたま肉体が発生して生まれてきただけ。
肉体が死を迎えたら無に戻るんだし、一切なくなるでしょう。
心なんてのも脳が作り出しているんだから、肉体機能が終わればそれも終わるんじゃないの。
2.自分ってもともとは魂なんじゃないか。
魂が肉体という器に入ってこの世に生まれるんだと思う。
肉体が死を迎えたら魂は出て行って、どこか大きなもののところに帰るんでしょう。だから魂は永遠性がある気がする。
わかりやすく極端に二分して書きましたが、なんとなく自分はどちらかの感覚に近いな・・・というのはあると思います。
おそらくですが、日本人は昔から、ご先祖さまがお盆に帰ってくるとか、亡くなった方が天国から見ていてくれるとか、仏壇にお供えとか、神社にお参りとか・・・当たり前にしている人も多いので、2の方が感覚としては近い人が多いのではないかという気がします。
だとしたら、もうそれは十分に「スピリチュアル」な感覚というものです。
べつにアヤしくないですよね。
「人間は魂である」という前提。
別の言い方をすると
「人間は肉体だけの存在ではない」という前提。
それがスピリチュアルの基本といってよいと思います。
いわゆる皆さんが「アヤしい」と眉をひそめる(笑)「スピリチュアル」とか「スピ系」とか「スピスピ」とか・・・それらすべて、その前提を元にして枝葉のように広がっている話です。
アヤしく感じるとしたら、それは枝葉の部分のイロイロなもの。
枝葉は360度、あちこちに広がってますから、その中のどこかに関してあなたが「アヤしい」と感じたとしても、もっともな話です。
それだとしても「木」全体を否定する必要はありません。
いちばん根本である「人間は魂である」という前提にさえ戻れば、べつにアヤしいことではないはずです。
ちなみに本当に「人間が魂である」かどうか、本当のところはわかりません。
いわゆる「科学」でそれを実証することはできないし、する必要もないと私は思います。
ただ「その概念を採用するかどうか」です。
そう考えることで、自分が救われたり、自由になったり、可能性が広がったりするのなら、それを採用すればいいのでは。
そうすると何かいいのでしょうか?
「魂」だと考えると?
さて「人間は魂である」と考えると何がいいのでしょうか?
1.辛い環境に沈まない
人間には必ず「生まれ育ち」がついて回ります。
どうしたわけか辛い環境から人生をスタートせざるを得なかった方もたくさんいらっしゃいます。
そういう場合「自分はなぜこんなところに生まれてしまったのか?」という重い問いを抱いたらどうするでしょう?
単に「両親から発生した肉体」という前提で「たまたまでしょ。」と思うだけだったら?
「なんと運が悪く、理不尽で損な人生なのだ!なんで自分だけがそんな思いをしなければならないのだ!」と、やり場のない憤りや絶望を感じることになるでしょう。
「どうせこんな自分なんだから、何をやったってムダ!」と人生投げることになっても無理はありません。
しかし「魂である」という前提に立つなら、「何かを知りたくて、何かを学ぼうと思って、あるいは何かを成そうと思って、この環境を選んだのだじゃないか?」という考え方をすることができます。
そうすると「このことにも意味があるのかもしれない」という希望になるでしょう。
人は「意味がない」と感じた時に、力も希望も失います。
そこになんらかの意味があると思えるなら。
そこに「自分の意思である」という自分軸が立つなら。
人間は力を取り戻します。
自律的・自覚的に生きる姿勢が立ってきます。
そうなればその環境はもう単なる「運が悪く理不尽」ではなく、自分が学びや成長のために選んだ「舞台設定」となるのです。
結果、それが自分を救うことになるでしょう。
生まれ育ちのみならず、生きる上で出会うさまざまな試練や苦境にも、「魂として何かを知りたかったのかも」と思うことで、闇雲に呑まれて終わることがなくなります。
そうやってまずは、自分と人生と環境を受容することができます。
受容があるからこそ、そこから本来の力を蘇らせて転換する力も湧いてきますし、結果として「不運を恨んで嘆いて終わる人生」から脱出することができるでしょう。
2.天命・使命という視点を得る
もう一つは、この人生で何をやるか?という視点においての違いです。
たとえば「自分はたまたま発生した肉体にすぎない。死んだら終わり。」と思っているなら
この人生はとりあえず楽で、問題がなくて、損をせずそこそこ楽しく過ごせればいいんじゃない?
ということでもOKになります。
いろいろなことを特に深く考える必要はないし、嫌なことにわざわざ向き合わなくても、人生終わるまでに逃げ切ればラッキーでしょう。
自分と家族と親しい友人くらいの範囲が、安全に楽しく暮らせていれば大満足の人生です。
一方「自分は魂であり、何か意味があってこの世界に来た」と思ってみるなら、必然的に
「じゃあ自分は何をしに来たんだろう?来たからにはやって帰るべきことがあるのかも?それって何だろう?」
という探究心がわきます。
それはまるで人生というワンダーランドにおける大きな「宝探し」の旅です。
その度は楽なことばかりではないけれど、いつも心には「大きな目的」が輝いているから、出会う一つ一つがパズルのピースのように重要なものに感じられます。
そして大きな目的を見るから、そこに照らし合わせて自分の行動の軌道をとっていけます。
そしてさらにこの世界における自分の「お役目」という視点も得ることができます。
自分一人の人生じゃない。
自分という一つの要素が、この世界でこの時代に、パズルのピースのように果たせる役割があるのではないか?
それは何をすることなのだろうか?
という問いが生まれるのです。
それは単なる「生活のための仕事」を超えて、大きな全体のためにお預かりした「天命・使命」というレベルの仕事。
そういうものがこの自分にもあるのではないか?
という視点は「自分は魂として生まれて来た」という前提あってこそのものだと思うのです。
そんな「天命・使命」という感覚で自分の仕事を選び、全力で取り組めたらとっても充実した人生になるような気がしませんか?
そしてそれが、人さまのためになり、世の中をよくする一因となる・・・そのことの喜びはいかに!?
これは前者、後者、どちらがいいとか正しいとかいうことではありません。
どちらが自分はワクワクするか?燃えるか?ということですね。
私はもちろん後者なんですよー。
天命・使命とかの話は燃えますし、人様がそれを見つけていくプロセスにご一緒すると、ほんと自分までワクワクします(^ ^)
スピリチュアルは現実の質に直結する
そんなふうに
「たまたま生まれた肉体である」と思うか、「意味があってこの世に来た魂である」と思うかで
「今生きる、ここ」という位置付けやこの人生でやりたいことの質、
できごとや体験の意味合いの深さ、仕事というものに対する考え方取り組み方などがずいぶん変わってきます。
つまり、実際に今生きている現実の質に直結しているということです。
ということは、よく思われがちなイメージ、
スピリチュアルは現実とは関係ない絵空事
なんかじゃないよね!?ってことです。
ましてや「スピリチュアルって、オバケとか霊とかのヤツでしょ、コワ〜〜イ!!」じゃないんですよ(笑)
いえいえ、今ここで生きてるあなたと私のことですよ。
ですから、この分野を学んで深めるということは、人生の質をダイレクトに変えるでしょう。
心理学とスピリチュアル
肉体を持つ人間であることと魂であること
2つを一つにつないで生きることで、自分自身と人生はダイナミックな広がりを持つようになるのです。