私たち、昔は子供だったから
家ではお父さんお母さんや
おじいちゃんおばあちゃんがいて
親戚や近所のおじちゃんおばちゃんまでいて
いつも自分はちっちゃかったよね。
弟や妹がいたから
お姉ちゃんだのお兄ちゃんだの
言われたかもしれないけど
でも大人の前では無力な子供だったよね。
学校では先生がいたり先輩がいたり
会社に入ったら上司がいたり取引先がいたり
いっつも「上」の誰かから評価されて
何かあれば怒られる、って
もう身体が覚えちゃったよね。
あまりにもそれが当たり前になっちゃうとね
自分以外の他人は
みんな「自分を評価する人」
って
私たちの無意識は認識しちゃうみたい。
そうするとね、
こわいよね。
他人がこわい。
私を見透かして
評価して
ちょっとでも失敗したら
怒ったりがっかりしたりして
去っていくだろう。
って。
当たり前のように予測しちゃう。
でもそれは
あくまで子供の時の
ちっちゃくてなんにもできない時の認識なんだ。
今、私たちは大人だね。
大人だから、もうずいぶん
理性や感性が育っていたり
経験や知識も蓄えていたり
知恵や技術を身につけていたり
愛や力も満ちていたり
するんだよ。
ちっちゃい時から元々持ってる
キレイな個性っていうのもあるんだよ。
ほんとはね。
「いや、私にはそんなものない」
っていうかもしれないけど
それが子供の認識。
見えてないだけ。
認めていないだけ。
つぶされすぎて
傷つきすぎてるだけ。
あるんだよ、どんな人にも。
誰かみたいな形とは違っても
自分だけの形として
あるんだよ。
まず、そこは信じてほしい。
大きかった大人を
いまだに見上げ続けてる
心の中の子供の自分を見てあげて
「もう大丈夫」って言ってあげて。
同じ目線で見てみよう。
自分ももう大人であり
他人もおんなじ大人であり
みんなデコボコしながら
傷つきながら、恐れながら
でも愛を求めながら
ただ生きてる、それだけ。
自分が大人であるってわかったら
こんどは
自分の持っている有形無形のものを
人に「あげる」ことができる。
私の持っているものを
「ほしい」と言ってくれる人がいる。
それを信じられるかどうか。
人は必ずしも「私を評価する人」ではなく
「私からもらいたいと思ってくれる人」である。
そう思えるかどうか。
だからといって
ここで「奪われる、とられる」
ってなるのもちょっと違うのよ。
それもまた「られる、される」のちっちゃい自分。
それも勘違い。
ただシンプルに
私は求められている人である。
そう受け取れるかどうか。
全員じゃなくても
そういう人は必ずいるはず。
そう信じられるかどうか。
それがわかったら
仕事のおもしろさというのも、
また一段変わってくると思うよ。
心が「私は評価される人」ベースでいるかぎり
いつも自分を従う側に置き、
「どう思われるか」を恐れて
仕事をすることになる。
心が「私は求められる人」になったなら
どうやってその方達に応えてあげようか、って
あたたかい気持ちで仕事をすることができる。
私には「あげられるもの」がある。
私は「あげられる人」であり
私に「求めてくれる人たち」がいる。
決して無理することはない、
私のあげられるだけのものをあげるよ。
そんな気持ち。
そしたらそれが「お金」という形で
「ありがとう」って返ってくる。
そんなふうに仕事ができたら
ちょっと幸せだと思うし
実はそれって、仕事だけのことじゃない。
生きることそのものが
もう少しふわっと楽になると思うんだ。