「やりたいことをやる」という生き方がうまく回っていく人と、なんだか回ってない人と両方あるのなら、その違いは何だろう?
それは、自分が持っている心の前提。
自分には「ある」と思っているか
自分には「ない」と思っているか
ここの違いだと思う。
「自分にはある」っていうのは。
力、資質、美質、才能、魅力、志、情熱、愛、豊かさ、お金、やさしさ、強さ、繊細さ、おもしろさ、知識、技術、能力、経験、などなど・・・
なんでもいいけど、そういうあらゆるよいものとか、うれしいもの。
自分の内側にそういうものがある、と思っていること。
それってけっこうすばらしい、と感じているから、人にも平気で見せられる。
それが自分の中にいくらでも満ちている、と感じているから、人にも「これ、あげる!」っていえる。
自分、これでいいし。
だってあるし。
よかったらあげるよ?
ってね。
そういうのが「自分にはある」という状態なんだね。
そういう状態で「好きなこと、やりたいこと」をやると、自分もうれしいし、人も喜ぶし、なんかうまく回る。
反対に「自分にはない」っていうのは。
力、資質、美質、才能、魅力?
そんなの自分にない。
志、情熱、愛?
ヤダ、おこがましい。
豊かさ、お金?
いやいや、ないから。
やさしさ、強さ、繊細さ、おもしろさ?
そんなのどれほどのもんじゃない。
知識、技術、能力、経験?
まだまだ、全然だよ。
と思っていること。
いっつも「あれがない、これも足りない、まだまだ、全然」と感じていること。
これが「自分にはない」という状態なんだ。
くれぐれも間違えないでほしいのは、実際にあるのか、ないのか、を言っているのではないってこと。
だって、そんなこと、誰が測れる?
客観的具体的な数値の指標ってないものね。
それってぜんぶ自分でどう思ってるか、どう感じてるか。
それだけのこと。
「ある」かんじ。
「ない」かんじ。
どっち?
「あるはず・・・なんだけど、なんかいつも不安。あるって実感がない」
っていうんだったら、それは「ない」方だよね。
つまり「設定」なんだ。
自分には「ある」設定なのか。
自分には「ない」設定なのか。
それだけのことなんだけど、これが「ない」の設定になっていると、「やりたいことやろう」っていっても無理か、やったとしてもうまく回らない。
なぜなら「ない」設定上で「やりたい」と思うことってだいたい、ないものを埋めようとするためにやりたいことだったりするから。
埋めるための「やりたい」って
本当にやりたいこととは違うから。
そして「ない」設定上でいちばん望むことって「なくならないように」ということだったりするから。
「なくならないように」
「ダメにならないように」
はやりたいこととは違うから。
「ない」っていうのはマイナスなんだよ。
マイナスを前提にして、いくら見かけ上プラスを掛け算したって、どんどんマイナスが膨らんでいくばかり。
だから「うれしい、楽しい、幸せ」にならない。
でもね。「自分にはある」設定だと、元が「ある」というプラスだから、ちょっとでも掛け算するとすぐ増える。
「やりたいことをやる」という生き方が、本当の意味で「うれしい、楽しい、幸せ」につながるのは、前提を「自分にはある」にした人なんじゃないかと思う。
だからこそ、本当に「やりたいことをやる」生き方で幸せになりたかったら、まずは「自分にはない」の前提を書き換えていくことが先なんじゃないかと思う。
ないもの探しより、あるもの探しをしよう。
そんなこと言ったってどぉ〜〜してもないものばっかり探しちゃう人や、
ないものを探しては自分責めループに入りっぱなしの人は、
そうさせてしまう無意識レベルの深い深いプログラミングがかかっているから、
まずはそれを取り外すことを考えた方がいいでしょう。
やりたいことをみつけてやりたいことをやったら、この虚しさや不安は埋まって「ある」に変わるんじゃないか・・・
と思う気持ちもあるかもしれないけど
それもすごくわかるんだけど
残念ながら、それは順番違うんだよね。
先にその「虚しさや不安」てやつに、根本的に突撃する必要がある。
ないことにして切り離してきた、有象無象の自分のパーツに、ちゃんと居場所を与えてあげる必要がある。
そんな道のりの先に、「ない」という誤解がガラガラと崩壊して、初めて「もともとあった」ことに気づく。
あったことに気づいたら「こりゃ出さなきゃもったいないわ!」って思うでしょう。
そしたらそれが「やりたいこと」だよね。
それが「プラス」の地面に立つということ。
それが「ある」の世界に変わるということ。
そこから「やりたいことやる」が本当に回り出すんだね。