どんなすばらしい考えや認識や思想や教えも、
それ一つでは
世界の一部をある一つの場所から見て言ったことにすぎない。
世界の全てを語っているように見えたとしても、
やはり、ある方向から見える「全て」であったりするのであって、
それは
丸い地球の全体を一目で見渡すことができないのと同じように
人間である限り、致し方ないことだと思う。
砂漠の人は、砂漠で見た真実を語り
森の人は、森で見た真実を語り
街の人は、街で見た真実を語り・・・
それはどれも嘘じゃなくて、きっと真実だ。
でも、大きな全体という「本当の真実」に近づくためには
そんな無数の小さな真実を丹念に受け止め、
それぞれに肯定し、咀嚼し、その奥にある「何か」をこそ
感じ取っていくことなのではないだろうか。
そして、感じ取った無数の「何か」をつなぎ合わせた時、
形や言葉の奥にボーッと浮かび上がる「大きな何か」こそ
どうにか垣間見えそうな「本当の真実」・・・・
そんな感じじゃないかと思う。
だから、
どんなすばらしい考えや認識や思想や教えが、真実を語っていても、
「これこそが」「これしかない」と思い始めた時点で、
実際、真実からはどんどん遠くなるのだ。
人間、立つ限り「足場」ができる。
足場があると落ち着くし、安心だ。
安心すると根を下ろし、「ここだけだ」と言い始める。
でも、本当に真実に近づきたいなら、
その足場を自分で次々と崩し、歩き回ること。
世界を、歩き続けること。
そして行く先々で見える真実から、感じていくこと。
同時に、今見ているものは一面にしか過ぎないということを、
いつも静かに知っていること。
その方がおもしろい。
そんな歩き方に、憧れるこの頃です。