私が燃え尽きるきっかけとなった、2007年「CD発売中止事件」。
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15年前、こうして私は燃え尽きた【PRISMIXストーリー1】
私の理想形を実現
PRISMIXは、私が燃え尽きる前、音楽家時代最後の5年間に全力を注いでいた音楽ユニットである。
形としては、弦楽四重奏(ヴァイオリン×2、ヴィオラ、チェロ)とリズムセクション(ギター、ベース、ドラム、ピアノ)の合計8人編成。
2002年に立ち上げて以来、半年の一度のペースで「南青山マンダラ」を拠点にライブを行ってきた。
そもそもの始まりは、それまでアーティストさんの楽曲のアレンジや色々な場でのピアノ演奏など、つまり「他人のための音楽」をやって仕事をしていた私が、
初めて「自分の作曲で自分のやりたい音楽をやろう!」と思い立ち、ゼロからの挑戦を重ねていったのだった。
私が初めてはっきり「やりたい」と思った音楽とは、弦楽器とバンドの融合。クラシックとポップスの融合。ジャンルなんでもあり。
ポップス、クラシック、ラテン、ボサノバ、ジャズ、ファンク、ロック、アイリッシュ、昭和歌謡・・・・等々、曲によって色々なジャンルの音楽が現れる。
なぜ、弦楽器&バンドなのか?
それは、弦楽器は「天上」を表現できるから。
バンドは「地上」を表現できるから。
天上から地上まで、スケールの大きい世界観をこの編成で表現したかったのだ。
天と地を結びたかったのだと思う。
そんな構想を実現するべく、私は未知のことに次々とチャレンジした。
友人のヴァイオリニストとたった2人で最初のデモテープ(当時はカセットテープ!)を作り、ライブハウスに持ち込んだ。
まだメンバーが集まってないのに「8人編成です!」と言ってブッキングを決めた(笑)
そこからミュージシャンを集め、曲を書き譜面を揃え、リハーサルを決めてスタジオを押さえ、経費を自分で持ち、ライブの収益を分配してギャラを支払った。
チラシを作り、知り合いに郵送・手渡し・声かけ(当時はまだまだアナログ)という泥臭い集客活動も全部自分でやった。
つまり、バンマス&プロデューサー&主催者。
それまで「リーダー」などやったことのなかった私が、一つ一つ体当たりで挑戦し、体験していくことで、私自身の経験値も自信もどんどん上がっていった。
半年に一度ペースでライブを重ね、幾度かのメンバーの入れ替わりを経て、
最終的に第一線の実力者が揃う申し分のないグループとなり、
次第に制作会社から声がかかって作曲を依頼されることも増えてきた。
メンバーは、日頃スタジオやライブハウスシーンで活躍する敏腕ミュージシャンたちであるため、このメンバーでそのままスタジオレコーディングの仕事も受けることができた。
そういう意味では、「儲からないけど好きなことやるバンド」ではなく、「いい形でちゃんと稼げるプロ集団」だったわけで、
まさにそれが私の意図していたところだった。
いろんな意味で私が理想型として描いた姿が、年々少しずつ実現していたのである。
そんな流れで2006年、テレビ東京系アニメ「ゼーガペイン」のサントラ制作を「Project PRISMIX」として引き受け、ビクターからサントラCDを2枚リリース。
自分にとっては、曲も演奏もかなり納得のいく作品になった。
さらにその年、あるご縁で「オリジナルCDを作らないか」というお話をいただいた。
オリジナルCD制作へ
当時はまだまだ私にとって「CDを作る」ことは特別なことだった。
特にこのユニットは、完全生楽器の8人編成。
つまりコンピューター打ち込み&宅録によって作れるような種類の音楽ではなかったため、大規模なスタジオレコーディングが必要。
とてもじゃないけど経済力のないミュージシャン一人で作れるはずもなく、誰かどこかの「大きいところ」に機会と制作費をいただかないとありえなかったのだ。
だからこそ、この話はたいへんありがたいものだった。
これまでライブで何度も演奏を重ねてきた「とっておきのオリジナル曲」を、ついにアルバムとして発売できる!
これに乗らないはずはないでしょう。
ということで、レコーディングは2007年の2月。
秋から冬にかけて、その仕込みが始まった。
ところが・・・・
実はその時点で、自分の中にヒタヒタと「油切れ」のような枯渇感があることを、うっすらと感じていたのだ。