嫌われたくないと必死になるのは
本当の自分は嫌われる
と思っているから。
役に立たなきゃと必死になるのは
本当の自分は価値がない
と思っているから。
きちんとしなきゃと必死になるのは
本当の自分はだらしない
と思っているから。
完璧になろうと必死になるのは
本当の自分は欠けている
と思っているから。
いい人になろうと必死になるのは
本当の自分は悪い人だ
と思っているから。
認められたくて必死になるのは
本当の自分はみじめな存在だ
と思っているから。
愛されたくて必死になるのは
本当の自分は愛されない存在だ
と思っているから。
思ってることの逆を
必死でやってしまうのが
人間なのだよね。
「本当の自分」じゃダメだから
必死になって
本当じゃなくなろうと
するのだよね。
私たちはずいぶん昔
言葉もわからない小さいころ
死ぬほど寂しかったことがある。
死ぬほど悲しかったことがある。
死ぬほど傷ついたことがある。
死にそうに
無力を思い知ったことがある。
死にそうに
みじめだったことがある。
だから、もう二度と
あんな思いをしないように
絶対に絶対に
そうならないように
必死になって
逆のことをするんだね。
でも不思議なものでね。
大人になっても
そんなことを続けているうちに
どんどん自分の首が締まるんだ。
必死と書いて
必ず死ぬと読む。
それはデスロード。
どれだけ必死でがんばっても
この先、楽になることは
決してない。
嫌われないのも
きちんとするのも
完璧めざすのも
いい人なのも
認めてもらうのも
悪いわけじゃない。
けど
その裏に
死ぬほどこわい記憶が
「本当の自分」として
ぴったり張り付いているなら
苦しい「必死」が空回りする。
「死ぬ」じゃなくて
「生きる」を選びたいね。
あの時、寂しかった。
あの時、悲しかった。
あの時、傷ついた。
あの時、無力を思い知った。
あの時、みじめだった。
あの時は
きっとそうだったんだ。
そしてそれを
絶対に絶対に言えなかった。
あの時の自分のために
今、泣いてあげよう。
しかたがなかったね。
よくがんばったね。
ずいぶんひどい
気持ちだったかもしれない。
でも、あなたという人が
ひどかったわけじゃないんだよ。
あなたがひどいから
そうなったわけじゃないんだよ。
あなたのせいじゃないんだよ。
あなたはただ生きていて
そんな感情を経験した
ということなんだ。
どんな感情を感じても
あなたという
いのちの存在には
1ミリの曇りも傷も
ついていないということなんだ。
感情を、ただ
「そうだったんだ」と認めて
大きく長い息を吐いて
「本当の自分」に張り付いた
全ての考えを落として
なんの価値も定義もつけずに
ただそこにいることができるなら
今「生きてる」がある。
生きてる自分でOK。
そんな今なら
嫌われても
嫌われなくても
きちんとしても
しなくても
完璧めざしても
めざさなくても
いい人でも、
そうじゃなくても
認めてもらっても
もらわなくても
どっちの時があってもよいよね。
どっちにしろ
生きているからね。
そんなことより
この存在の真ん中に
湧き上がってきた望みを
一つずつ生きる方が
ずっと楽しかったりするよね。