クリスマスイブの朝、なぜかマーヴィン・ゲイのWhat’s going onを聴きたくなった。
制作は1970年。
この時代独特の、社会への尖った意志が疼くような熱気を含み、言っているメッセージは重いけれど、サウンドは優しくてあたたかい。
Wikiによると、彼がこれほど音楽に没頭したきっかけはキリスト教の説教師であった父親の精神的虐待だそうだ。
精神的に逃げ場のない中、唯一の自分の心の置きどころとして音楽に没頭したのだろう。
没頭するからこそ習熟して、その才能を開かせていった。
「痛み」と引き換えの表現
ミュージシャンやアーティストの中には、生まれ育ちの事情でそこまで一つのことに没頭せざるをえない必然があった人も多い。
つまり原家族においての何らかの「痛み」を抱えているということだ。
幼い頃からその痛みにさらされる中、いわば生き抜くための唯一の「蜘蛛の糸」のようなものが「それ」だったりするのだ。
「それ」があったからこそ生きぬくことができた。
だからこそ「それ」は決して切り離せない、その人と深く同一化したものになる。
それはもう執着といってもいいほどの、常人を超えた愛着と拘りと没頭で取り組むからこそ、習熟と専門性として花開いていくのだろうと思う。
そんなアーティストから生まれる美しく力強い表現、稀有な世界観は、ある意味そんな痛みの「反転」であるのかもしれない。
そうやって表現することが、自分自身を救っていく道のりでもあり、それが他者にとっても救いになっていくのかもしれない。
「傷」ゆえの表現。
「傷」こそが表現の原動力。
それがあるからこそ咲き誇る花。
だとしたら、その「傷」が癒されてしまったらもうそんな表現はできなくなるだろう・・・と無意識に怖れたとしても無理はない。
表現ができなくなったら、もうアーティストでいることはできなくなるのだから。それはアーティストにとって、死にも等しい恐怖。
もともと生き抜くための唯一の「蜘蛛の糸」として掴んで離さなかった「それ」であり、
そこまで自分と同一化した「それ」であるのだから、それを失うことは死を意味するも同然だ。
だから、アーティストは傷を温存し続ける。
温存している傷は、いつも心の深部で痛み続ける。
その痛みをまた表現に変換して、アーティストは作品を生み出し続けるのだろう。
それが、多くのアーティスト伝で語られる「孤独と背中合わせの壮絶な人生」というものの根底にある構造ではないかと思う。
光が強くなれば影も濃くなる
いわゆる「成功」をして、無数の人とお金と社会のエネルギーがアーティストの周りに集中してくると、その莫大な外側の「光」のエネルギーに比例して、内側の傷の「影」のエネルギーも増大する。
その時、幼い頃から人知れず抱えていた「傷」が、よりパワーを増して、形を変えて外側に表出する。
多くの著名なアーティストが、成功すればするほどプライベートで問題が勃発し、不安と孤独に苛まれ、常軌を逸した放埓や奇行に走り、精神的に追い詰められて自暴自棄になっていくのは、
そのような手付かずの「原初の傷」が大きな力によって噴出してくるということなのだろう。
自分を脅かすそのような内側の痛みを忘れるために強い刺激を求め、麻痺させるために酒やドラッグに頼る。
いわゆる「破滅型」のアーティストとは、内なる傷の暴発に翻弄された姿なのではないかと思う。
しかし、その傷は癒されるべきなのか?
傷があることはいけないことなのか?
というと、必ずしもそうとは言い切れない。
なにより、本人が癒やされることを望んでいないことは大いにあるからだ。
先ほど書いたように、それは多くの場合、表現の原動力だからであり、下手に癒されてしまうことにはリスクが伴う。
それは、自分が自分ではなくなってしまうような恐怖であり、これまでのような表現ができなくなる恐怖となりうるからだ。
それよりも、痛みを抱え、孤独に苛まれ、満身創痍になりながらでも、築き上げてきたアーティスト人生を全うすることを選ぶ人も多いのだろう。
それと引き換えにして、美しいものをたくさん生み出し、その切実さゆえに多くの人の心にくさびを打ち込んで輝いていったアーティストたちが、あの空の星のようにきらめいている。
マーヴィン・ゲイは44歳の時、両親のけんかを仲裁しようとして、激昂した父親に銃で打たれて亡くなった。
しかもその銃は、マーヴィン自身が父親にプレゼントしたものだという。
いくつになっても、最後の最後まで、親のことをなんとかしようとしていた、けなげな子供。
機能不全家族の中で育った子供ほど、必死に両親のことをなんとかしようといつまでたっても両親に固執する。
求めて求めてやまなかった、けれどもどうやっても得られなかった愛なのだろう。
その傷を抱えながら、それゆえに、音楽という器に命を注いでいった一人の人。
そんな無数の星たちの中の、小さな一つの星の物語。