「なりたい自分」をめざして 、一生懸命がんばる時代があってもいいでしょう。
「なりたい自分」に向かっているその道が楽しいなら、大いにがんばってみればいいでしょう。
でも「なりたい自分」になろうとしているその道が、なんだか辛くなってきたなら、そろそろ見直してもいいかしれません。
「なりたい自分」というやつを、富士山の頂上のようにはるか見上げながら、とぼとぼと歩いている今が
楽しくもなく、おもしろくもなく、ただ辛く忍耐あるのみ・・・なのだったら
その「なりたい自分」とやらのゴールは、本当にあなたが行くべきゴールなんでしょうか?
その「なりたい自分」に向かうためにやるべき「そのこと」は、本当にあなたがしたいことなでしょうか?
「なりたい自分」を描く時、なぜそれに「なりたい」のでしょうか。
今のこんな自分が苦しいから。
今のこんな自分が嫌だから。
「ああなりさえすれば」楽しくなれるんじゃないか。
「あんなふうにさえなれたら」こんな自分でもOKになれるんじゃないか。
「なりたい」のその裏には、「この自分じゃなくて」という思いが見え隠れします。
そんな「苦・嫌」を脱出するために描いた「なりたい」は、絵に描いたモチになりがちです。
今の自分を受け入れられない・・・つまり自己否定という土台の上に、「なりたい自分」という絵を描いているからです。
そして、そんな「なりたい」のために努力しているその道のりは、辛いばかりでちっとも楽しくないでしょう。
その「なりたい」は自分が本来なりゆく姿とは違う可能性が大きいです。
「なりたい自分になる」はなかなか危ういゲームだと思います。
一見ポジティブで夢があっていいんだけれども。
がんばるためのネタにはなるので、ある時期、使えるツールではあります。
でもあんまり本気になりすぎると、どうでしょうね。
私はなんだかそこに「ほんとかな?」というハテナマークが浮かぶことが多いです。
私たちの頭なんてちっぽけなもんです。
その小さな頭で本来の自分を否定して
そんな否定を根拠にさらに小さな頭で考えた「なりたい」を目指したって
それは本来のもっと大きないのちからすれば、全く関係のないこと。
本来のいのちっていうのは、頭を超えたところにあります。
むしろ、そうやって必死で否定されている自分の方にこそ、本来のいのちのエンジンが眠っています。
否定を外して、そっちをこそ掘り出してやることが、私は本来的だと思っています。
べつに「本来的」だけがすばらしいわけじゃないけれども。
「些末的」だって楽しめればいいんですけどね。
私は「本来的」が好きなので。
否定さえしなければ、いのちは伸びゆく方向に伸び、なりゆく方になっていきます。
否定さえしなければ、湧いてくる「したい・やりたい」に従えば済むことです。
それが、本来の自分として一番伸びる方向です。
いのちは「なりゆく」もの。
「なりたい」とか「なろう」とかではなく
自然に戻れば勝手に「なりゆく」ものです。
やりたいことをやっていたら、勝手にその人らしくなっています。
「なろう」なんてしなくても。
ユリがバラに「なりたい」と言って、いつもバラを念じて「私はバラになっています」とアファメーションしているとしたら。
すみれがチューリップに「なりたい」と言って、チューリップ目指してタスク管理とPDCAをバチバチにやっていたら。
ユリはユリとして咲いてくれたら、いいんじゃないのかな。
すみればすみれでそこにいてくれたら、いいんじゃないのかな。
そんなことより、ただ今この時
思ったように思い
感じたように感じ
心のままに表現し
その時々に動いて
やりたいと思ったことを夢中になってやっていれば
おのずと自分としてそこにいます。
「なりたい」より「やりたい」の方が、より自分自身に距離が近いし
「やりたい」んだったら「やる」ことの方が、よりリアルです。
やる。やっている。今ここで。
そのことが嬉しいかどうか。
その一瞬の連続です。
そのことが嬉しいのであれば、
その先もおそらく嬉しい何かにつながっていきます。
このいのちをただ伸び伸びとさせておけば
ただ、嬉しい。
それが一番自分らしい。
そんな瞬間、人から見たらすごく魅力的。
そういうものなんじゃないかなと、私は思います。
で、その上で。
でもじゃあ未来のことは全く考えないんですか?
目指したいものがあることだってあるんじゃないですか?
そういう場合どうするんですか?
というご意見もあるかも、と思います。
あくまでも私の場合ですが。
そういう時は「なりたい」じゃなくて
「なる」んです。
この話はまた次回にしますねー。