全く動けなかった昔の私
今日はちょっと昔話をします。
今でこそ私は、こういうふうに自分の名前で仕事をして情報発信したり、
講座を開いて人前でしゃべったり、CDレコーディングやライブを企画して形にしたり、など、やりたいようにやっていますし、
人から見たらけっこう行動的な人だと思われるかもしれませんが、昔の自分はまったくそうではありませんでした。
20代の頃の自分からすれば、こんな未来は想像もつかないものでした。
かつての私は、とにかく無力感と自己否定に圧倒的に支配されていて、
自分が何かを創造できるとか、ものごと動かせるとか、とうてい考えられませんでした。
自分は無理。
自分なんて。
自分にはできない。
そんな思いばっかり。
いちおう、芸大とか出てたんですけどね。
作曲科出身ですから、曲作るなんて明らかに創造じゃないか、って冷静に考えればそうなんだけど、
当時の本人にとって、そんなことは問題にならない(笑)
芸大出てたって、ちょっとばかり作曲ができたって、ちょっとばかりピアノの仕事をしてたって、
私のマインドのデフォルトは無力感でした。
自分は行動力も実現力もない人間だから、って本気で思ってる。
だからなんにもできない。
ただおとなしくて、臆病で、戸惑いばかりで、迷ったらやめとく方を選ぶような私だったのです。
これがまさに、自己否定ビリーフにどっぷりやられている状態です。
自分はそういう人間だとしか思えないんです。
そのころある人から「あなたの本質には『創造の力』が眠っている。それは場を巻き込んだり動かしたりしていく力だよ」
と言われたことがありました。
その時の私は、そんな姿は自分からは最も遠いものだとしか思えなくて
「うっそー、ないない!それ自分じゃない。なんかの間違い。」って思ってました。
こうして変わり始めたミュージシャン時代
そんな私が変わり始めた一番のきっかけは、30代になって1回目の結婚を終わらせる決断をした時です。
周りから何と言われようと、たとえ批判されようと、後ろ指さされようと、もういい!
私は私の思ったことを貫く!絶対に別れるところまで持っていく!
と、生まれて初めて、そこまでの肚をくくりました。
人ではなく、自分。
それだけを優先してぶっちぎる。
人間、一度はこういうことをやってみるもんですねー。
この体験を通して、私はこの時はじめて、肚をくくって行動するということができたのだと思います。
結果、現実はちゃんと動くということも、身をもって知ることができました。
その時から私は、自分の意思を立てて行動するということができるようになりました。
離婚から1年後、私はこれまた生まれてはじめて、自分のバンドというものを作りました。
自分の曲を、自分の思う編成とスタイルで、自分の思う活動形態でやりたい。
そんなヴィジョンを持った私は、友人のミュージシャン仲間に声をかけ、たった一人の同志からはじまって、最終的に8人編成のグループを作って率いる、プロデューサー/バンドリーダーになっていました。
バンド仲間を集めることも、ライブを企画することも、ライブハウスをブッキングすることも、チラシを作って集客することも、収益や分配を考えることも、とにかくそういうリーダーみたいなことは何もかも初めてです。
でも、挑戦だー挑戦だー!と思ってやってると、できるようになっちゃったんですねー。
その活動が発展して、作曲家としての私を確立してくれたわけです。
こうして、あれほど無力感と自己否定どっぷりだった自分が、いつの間にか行動できる、ものごと動かせると信じることができる自分へと変わっていました。
「本当の自分」は後からわかる
その後、音楽家としての燃え尽きを体験したことで、心理の分野へ転換して、根本的に自己否定の構造を解き明かすことができるようになったのは大きかったです。
それで結果として今、やりたいと思ったことに強気に向かうことができる自分となり、
セミナーなどで「肚くくるのだ!怖くてもやるのだ!」などと(笑)人さまの背中を押しているのですから、人生わからないものです。
今思えばたしかに「創造性」は私の持つ力でした。
そのことが、後々になってやっとわかりました。
でもかつては自己否定によって、それがガッチリ封印されていたようなものです。
つまり何が言いたいかというと。
最初はまったくありえないと思っていた姿の自分というものが、実は自分の中にひそかに眠っている可能性は大ありですよー、
と言いたいわけです。
人は変われます。
ビリーフを脱出すれば。
人生の初期、私たちはビリーフというさまざまな信じ込みや思考の制限にガチガチに縛られて育ちます。
その状態だと、自分の本来の性質やパワーはなかなか出てきません。
そこでできてしまった自分像というものがあります。
「この程度の、たいしたことない、無力な自分」と思い込んでしまったとしても仕方がないのです。
自分でも自覚できないくらいの深いところで、その前提があるからこそ
「こんな自分じゃなくなるように、もっともっと努力しなければ!!」
と、無理な努力や我慢を重ねたり、ゴリゴリと筋力・力技を使い続けて、やがてどこかで疲弊していくのです。
しかしそれは「ビリーフに縛られているがゆえ」です。
人は変われます。
そうではない「本来の自分」の姿というものがあるのです。
変わるとは、元々あったものが現れること
「変わる」とは、この自分じゃない人間になることではありません。
自分の中から、自分の本来持っていた力が現れることです。
もともとあったものが現れる、ということ。
それが「変わる」ということです。
そうやって現れてきた自分というのは、それまで思っていたような「自分」とはそうとう違う人だったりします。
かつての私のように、ね。
それは、元の自分にないものを身につけたんじゃないのです。
元の自分にあるものが現れるのです。
制限が外れれば、現れることができるのです。
それだけの可能性を、私たちは内に秘めているし、
逆にいうと、それが見えなくなるほどの制限を、初期的にはかけられているということです。
それは「人がこの社会に生まれて育つ」という、やむにやまれぬ仕組みのゆえです。
だからこそ、気がついた時点で、自ら制限を外す。
このことが本当に重要だとつくづく思います。
今の自分がすべてじゃない。
自分、こんなもんじゃない。
そんなふうに思ってみてください。
よかったらちょっと口に出して言ってみてください。
今の自分がすべてじゃない。
自分、こんなもんじゃない。
まだ知らない自分が
自分の中にきっといます。
その自分は
表に現れて羽ばたくことができる時を
きっと待っています。