私たち、どんなに
「自分じゃないもの」になろうとしてきたんだろう。
ああならなきゃ
ああしなきゃ
こうやらなきゃ
これができなきゃ
こうでなきゃ
こうしなきゃ
いったいどれほど
きゃーきゃー 言ってるんだろう。
それは全部、
自分じゃないもの・・・
つまり
誰かの言ったことや
誰かの示したことや
誰かのやったことや
誰かの考え
誰かの姿
をとりこんで
「この自分」じゃなくて
「それ」みたいにしないと
生きてゆけないんだと
信じ込んでしまった。
「それ」みたいになれない自分じゃ
ダメなんだと思い込んでしまった。
だから
変わりたい
成長したい
向上したい
っていうんだね。
そんな健全そうな望みでさえ
その裏には
「だってこの自分ではダメだから」が
ピッタリと貼りついていることも
よくある。
「これ」じゃなくて
もっと「あんなふうに」って
自分じゃない誰かを目指して
そうなれない「この自分」を嫌いになっている。
そうなれない「この自分」に
後ろめたさと恥ずかしさを持っている。
「どうせ」と言ってやさぐれる。
この自分じゃなければいいのに
こんな自分じゃなければいいのに
そうやって何度
自分を叩きのめしてきただろう。
そうやっているかぎり
永遠に苦しみは終わらない。
永遠に望みは叶わない。
なぜなら、
ここにいる自分という存在を消すことはできないのに
一生懸命消そうとする
という矛盾を起こしているから。
消えるはずのないものを
消そうとしている。
すでに存在しているものを
存在するべきではないと言っている。
自分が生きているのに
他人として生きようとしている。
猫なのに
ワンと鳴けない自分は犬として失格だ!
と言っている。
それが矛盾でなくてなんだろう。
それはまるで
本来右に回ろうとしているものを
左に回そうとするようなものだ。
逆回し。
それは、命の、存在の
逆回しだ。
だから、軋轢が生まれる。
だから、力がでない。
だから、進まない。
だから、止まる。
「この自分ではダメだから」
をやめないかぎり
どれほど得ても
どれほど身につけても
どれほど変わっても
どれほど成長しても
どれほど向上しても
その焦りと乾きは満たされることがない。
永遠に。
もしも、変わるというならば
「自分じゃないもの」になろうとする、
それをやめること。
それが有効な「変わる」
ということかもしれない。
ああならなきゃ、
ああしなきゃ、
こうやらなきゃ
これができなきゃ
こうでなきゃ
こうしなきゃ
こうなら◯で、こうなら×。
そういう設定をやめること。
誰かの言ったことや
誰かの示したことや
誰かのやったことや
誰かの考え
誰かの姿
鵜呑みにしてしまった
そういうものを
頭の中から追い出すこと。
そういう無数の誰かの亡霊を
もう信じないこと。
それらがすべて
頭の中から消えたら
何が残る?
ただ、自分がいるだけ。
ここに生きている命があるだけ。
その命にはすでに
自分だけの色がそなわっている。
そして、それでいい。
そこからはじめればいい。
その自分が、感じることを信じていい。
その自分が、望むことをして
その自分が、望まないことはしなければいい。
落ち着いて
「この自分」でいられること。
安住の地はここにある。