何もしない自分とは何者か
今日は前回の続きです。
前回はこちら→
うつ・病気・挫折・燃え尽き… 「できない自分」になった時どうする?
つまりね、「すること・やること・できること」ばかりを価値としてきた人間は、
なにもできないそのまんまの自分、ただ生きてるだけの自分なんてものには価値がないんだ!
って、知らないうちに思っちゃってるんです。
だからこそ、シャカリキになって「する・やる・できる」に走るんですね。
そんなとこに突然「やれなくなる、できなくなる」という体験がやってきちゃう。
そうすると、強制的に身ぐるみはがされて、そのまんまの「ただ生きているだけの自分」てのになっちゃうんですよ。
それはもう、今まで価値がないと思っていた自分そのものです。
これが慣れていないものだからもう、ジタバタ、ジタバタ、泣いたり苦しんだりするわけです。
でも、この時カウンセラーさんが私に言ったことは、その「そのまんまの、ただ生きているだけの自分」に慣れてみろ、と。
それを嫌でも味わってじっとしててみー、と。
そういうことだったのです。
ものすっごい居心地の悪いその場所に、ジリジリとじっとしててみる・・・・そうすると何が起こるのか。
「あー、こんな自分でも生きてていいんだ」ってことが、腹に落ちる時が来るんですねえ。
「生きてる。今ここに命があり、私が在る。それでいいんだ。」ていうかんじ。
私自身、いつどうやってそんな感覚になれたかちょっと思い出せないんですが、明らかに今はそう思えているっていえます。
たぶんあの時の経験は、その大きなきっかけになっていると思います。
Doing の価値から Being の価値へ
今だから言えます。
「する・やる・できる」っていうのは
「Doingの価値」といいます。
「ある・いる・生きてる」っていうのは
「Beingの価値」といいます。
この2つは全く次元の違うものなんです。
Doing だけに価値をおいていると「ある・いる・生きてる」ぐらいのことなんか、ぜーぜん問題にもならないんですね。
はっきり言って、それ、何のことだかよくわからないです。
でも、Doing の価値が無理矢理にでもはがされて、素っ裸の自分にならざるを得なくなってはじめて、Being というものに直面せざるを得なくなるのかもしれません。
「ある・いる・生きてる」
つまり、存在していることの価値。
もっと言えば、価値があるとかないとか、そんなことを超えて「ただ在る」それでいい、というかんじ。
もがきながらも、このBeing という価値が腑に落ちるようになったら、人生は飛躍的に転換します。
ていったって
どうやったらそう思えるのよ・・・
っていわれそうだけど。
それがねえ、
具体的にこうすればいいですよ!は私もはっきり言えません。
「やれない自分」という居心地悪い場所でジタバタしながら、いつのまにか導かれる場所なのかもしれませんし、
もうちょっと積極的にセラピーやカウンセリングなどを受けることで、それを体感していけるのかもしれません。
ただ今ここに私が在る
私にとってはそう思えるようになるきっかけの一つとして、瞑想も大きいです。
瞑想は、いいところに入れると、まさに
ただ今ここに私が在る。以上。
という状態がたゆたゆとず〜〜っと続いていくような、おだやかな安らぎを味わうことができます。
自分という存在そのものは思考や感情ではないことも、わかってきます。
これが実感できたら「する・やる・できる」にしがみつかなくても、そのまんまの自分でいられるようになってきます。
そういう状態に少しずつなりながら、私は自分の内側に向き合って、次に進むべき道を見つけていったような気がします。
もうずいぶん前のことだったようで、はっきり覚えてないですけどね。
まあ、いずれにしろ「する・やる・できる」に価値を置きすぎた現代の私たちにとっては「やれない自分になる」というのはめっちゃシンドイ修行であり、
逆に言えば、これを超えたらかなり新しいステージに飛躍できる、それだけ意義ある試練だといえるでしょう。
超えた先には、今まで感じられなかったような安らぎや充実がきっと待っています。
さて、また次回に続きます。
次回は、実際にそんな体験をして見事に乗り越えた
あるクライアントさんの体験談をシェアしたいと思います。
続きはこちら→
思いもよらず会社を辞めて・・・涙を超えてたどりついた温かい世界