「する・やる・できる」にストップがかかる時
現代人は無意識に、何かを「すること・やること・できること」 に非常に価値を置いているところがあります。
やれること、できること
役にたつこと、生産性があること
成果を出すこと、実績を上げること
これらがちゃんとこなせていることが善であり、普通であり、マトモであり、つまりは安全・安心である、と。
それは、あえて考えたこともないほど当たり前の感覚として、私たちの中にしみついています。
でも、この感覚に否応なくヒビが入る時が、人生には来てしまうことがあります
うつ、病気、怪我、失職、挫折、燃え尽き・・・
その他、様々な状況の変化によって、まったく不本意ながら、これまで「やれていたこと・できていたこと」にストップがかかってしまう時。
そんなつもりはないのに
やれなくなってしまう。
できなくなってしまう。
これはショックですね。
やれない、できない、ということは必然的に「何もしていない、できない自分」になってしまうということです。
「やること・すること・できること」が善であり、安心で大丈夫な自分の拠り所であればあるほど
これを失ったら、自分が無くなるくらいの恐怖と虚無を味わわざるを得ません。
やれなくなって初めて、「何もしていない」ということがこんなにも居心地の悪いものだということを知るでしょう。
まるで
ダメ人間になってしまうかのような。
もう終わりであるかのような。
こんなに何もしない、できない自分でいるなんて、周りの人達に申し訳なくて、悪くて、後ろめたくて・・・
なんで、こんなことになってしまったんだ自分は・・・・自責の念や負い目、罪悪感。
辛いですね。
まさにこれ、私も数年前に味わったものです。
絶賛燃え尽き中のあのころ
以前私は、音楽を作ることに燃え尽きて3年くらいはジタバタしていました。
その中でもたしか2010年ごろは、そのジタバタも極まったころ。
最低限の教える仕事などはしていましたが、それ以外には音楽に向かうのが辛くて仕方なかったので結局音楽はやりませんでした。
かわりに趣味の天然石ワイヤーアートのお教室などに通って、こまごまとした手作業に没頭したり、
この自分の状態をなんとかしなければと心理や哲学の本を読んだり
ネットで情報を探したり、考えたり、セラピーやヒーリングのセッションに行ってみたり・・・
まあ、要するにジタバタしていたわけです。
この時に私が一番味わったのは、まさに「やっていないこと」への罪悪感、でした。
やれない、やっていない、できていない、何もしていない、何をすればいいかわからない、何もかもが虚しい
本当に「やれない自分」をどうしていいのかわからないわけです。
だからこそ、せめて趣味に没頭しようとしたり、せめて家のことはちゃんとやろうと、当時まだ会社員だった夫のために毎日ごはんを作ったりしていたのです。
「なんにもできなくなった、何者でもない自分」に感じる負い目は本当に辛くて、
音楽ができなくなってしまった自分をどうしていいのか本当にわからなくて、
時々泣いてましたよ、マジで。
そんな時、あるカウンセラーさんに「なんにもしてない」ことの辛さを話したことがありました。
ほんとに1回かぎりの電話のカウンセリングだったので、どういう方だったか、今は名前も思い出せず正確な言葉も覚えていないのですが、その方がこんな意味のことを言ったのを覚えています。
「とことん、なんにもしないでいてみたらどうですか。 なんにもしないということに慣れることです。」
ええーーっ (((;゚Д゚)))
予想外の答え・・・
たしか、その時は「はあ〜、そうですかあ。」とかなんとか言って、あまりピンときていなかったような気がしますが、
今なら、わかりますねえ、その意味の深さが。
そう!そうなのよ!
さすが。
あれは深〜い答えだったかもしれません。
長くなるので、今日はここまでにしときます。