たくさんの方のご相談を聞いていると
人はなぜ悩むのだろう?
というそもそものところを考えたくなります。
もちろん私も昔は悩んできました。
心に関わって、いろいろ探して、学んで、考えて、少しずつ答えに近づいて・・・という道のりを重ねてきて
そして今、私の中では腑落ちする答えが出ています。
人はなぜ悩むのか?
たった一言で言うなら
自分のことがわからないから
です。
「自分」というのにも2種類あります。
1つめの自分は、自我。
生まれ育つ中で、生存のために後天的に付けていく「後付け」の概念の集合体を「自我」といいます。
私たちはまず人生の初期、この自我を自分だと思って生きています。
だからこれが、1つめの自分。
そして2つめの自分は、魂。
これは「生命」そのもの、「存在」そのものといってもいいでしょう。
生まれる前から宿っているいのちのエネルギーであり、これが元々の自分。
むしろこれこそが「1つめの自分」なのですが。
しかし生まれ育つ中で、この元々の自分のリアリティはあっという間にかき消されて、上記の「自我」だけを自分だと思い、その自分でこの世を生きていかなければ!と必死に駆り立てられていきます。
これが前提のお話。
「自我の自分」がわからない
で、人の悩みや苦しみを生み出すのはいつも「自我」によってなのです。
しかし、自我が悪いわけではなく、この世を生きることにおいて必要だから自我があるわけで、その意味もちゃんとあるのですが
しかしなんでその自我によってそんなに苦しむのかと言ったら
ここで最初の話。
自分のことがわからないから。
つまり
・自分が何に苦しんでいるのかわからない
・どうしてそうなってるのかわからない
・自分がどうしたいのかがわからない
・どうしたら苦しみから出られるのかわからない
ということ。
まずこれが、悩んでいる人の中で起こっていることです。
悩んでるっていうのは、わからないっていうことなんですね。
なんにせよ、わからないというのは非常に不安なものです。
不安だから、次から次へと妄想が湧いて、その妄想でまた苦しむ。
それが悩みのループ。
要するに原因は「わからない」ことから始まっている、と。
わかっていればそんなに悩むことはありません。
じゃあどうしてそんなに自分のことがわからないか?といえば
・自我というものが何かを知らない
・自我とはどんな性質で、どんな種類があって、それが何を引き起こすのか、構造と仕組みを知らない
・「自我を自分であると思っている」ことがわからない
・それゆえに、自分の自我に自分で気がついていない
のが理由です。
つまり、上記「1つめの自分」である「自我」について、まるで知らない・自分でわからない、というのが1つめの「自分がわからない」の内訳、ということになります。
魂の自分がわからない
さらに2つめの自分、つまり「魂」としての自分。
これは最初に書いたとおり、生まれ育つ中であっという間に埋もれて見失ってしまうので、当然普通の状態ではわかりません。
魂といわれても
はあ?
そんなのあるの?
え?幽霊?
え?宗教?
みたいなかんじかも。。笑
でもね、みんな実はよく言ってます。
本当の自分とか
本当にやりたいこととか
自分探しとか。
それって、何を探してるかって
見失ってしまった「魂の自分」を探してるんですね。
最初からなければ探そうともしません。
心のどこかに薄々記憶があるからこそ
あるはずなのに・・・と探している。
そう、あるのです。
ただ、自我に埋もれているうちは全くわからないのです。
二重の「自分がわからない」からスタート
そういうわけで私たちは
1.今自分が埋もれている
「自我」というものがわからない
2.自我の奥に存在している
「魂」というものがわからない
という二重の「自分がわからない」にドップリ浸かるところから、人生を始めなければなりません。
いわゆるスピリチュアル系で言われる「眠っている」というのがこの状態であり
これを仏教でいうと「無明」(むみょう)というのだと私は解釈しています。
人が生まれて生きるということは、そんな真っ暗な眠りからスタートせざるを得ないということだと思います。
参考記事
だから学ぶこと、識ること
そんな「眠り」「無明」の状態に、明かりが射して「目覚める」ためには
・知識
・体験
・気づき
が必要です。
まず最初に手をつけるべきところは自我だと私は考えています。
自我とはなんたるか、その構造と仕組みを知識として学ぶこと。
知識を知ったら、それを自分事として自分の心をつぶさに見て「これがそれか!」と識ること。
気づかず無自覚に繰り返していた自分の心のパターンが、そういうことになっていたのか!と気づくこと。
そういう体験を重ねてはじめて、「知っている」が「識っている」に進化するのです。
さらに「識っている」は「できている」を経て、「わかっている」へ。
そうやって少しずつ「自分で自分がわかる」の道のりが始まり、深まっていきます。
参考記事
自我がわかると魂がわかる
そして次。
自我とはなんたるかを識り、自分の中に「これが自我だよね」というリアリティが強まってくると、
そのあたりでやっと「自我ではないもの」の存在を微かに感じるようになってきます。
・自我ってこんなかんじ
・自我で動くとこうなるかんじ
・私の自我パターンてこれだよね
という「勝手」がわかってくるからこそ、
そのかんじとは違う、今まで体験したことのないような感覚が訪れた時に、「これはいつものと違う!」と気づけるのです。
「それが、魂、存在、いのちの感覚だよ」
と私のような役割の者が言ってあげると
「ああ、これがそれなんですね!」と深く腑に落ちてゆかれる。
そんな感動的なシーンも私はたくさん経験してきました。
その「魂感覚」のリアリティが、日毎に強まっていくと
もう自分自身で
ああ、これは自我。
こっちが魂。
ってだいたい感じ取れるようになっていきます。
「これは魂の方が望んでるヤツだ」なんてこともわかるようになってきます。
自我の声が魂の邪魔をすることも、だいぶなくなってくるからです。
そうしたら、自分は何を選び、何を選ばないのか。
自分で答えが出せるのです。
苦しい方が自我だとわかっているから
そうじゃない方を選ぶ。
魂が喜ぶ方を選ぶ。
ということもできるようになります。
もう、わけもわからず悩んで沼にはまって出られない・・・ということもなくなってきます。
見る力、気づく力、わかる力、選ぶ力が、自力で育っているからです。
自我はビリーフでできている
これが
自分で自分をわかっている
ということの最大の強みです。
人が苦しみの暗闇から離れることができる、確実な道のりです。
ちなみに、ここまで「自我」という言い方で書いてきたその言葉をそのまま
「ビリーフ」と置き換えてみてください。
自我はビリーフでできています。
ビリーフリセット®︎で取り扱っている「ビリーフ」とは、自我のことであると思ってもらえれば正解です。
ビリーフの仕組みを学んで識るということは、自我の仕組みを学んで識る、ということと同義です。
ビリーフから離れるということは、自我から離れる、ということ。
ビリーフのなんたるかがわかってくれば、魂のなんたるかも見えてくる。
ビリーフリセット®︎でやっているのはそういうことです。
人生の土台を決める心の実力
この世界、嫌なことや苦しいことはいくらでもあります。
しかし、どんなことが目の前に来ても、自分で自分のことがわかっていれば
目の前の現実とは一線をおいたところで、「苦しみの心」という沼にはハマらずにすむのです。
「そうであっても、じゃあ自分はどうする?」という主体性を失わずに済むのです。
それが心の実力。
それを育てていくためには、ある程度の期間の学びと鍛錬のプロセスが必要です。
そしてその道のりを私はすでに「BLC講座」として構築し、それを多くの方が実践してくださっています。
9ヶ月間の学びを終えた皆さんは、本当にみんな
自分のことがわかり
自分で気づき
自分で考察して
自分で幸せを選ぶ
ということができるようになっています。
「漠然とした不安」がつきまとっていた心の居場所が、いつのまにか
「根拠のない安心感」に変わっている人が続出しています。
それは何によってか?というと
自分で自分のことが
わかるようになった
からです。
自我がわかり
魂がわかる。
人生の質を決める
土台中の土台。
本当にこれができてしまえば
一生ものの宝です。
その土台の上に
どんなタネをまいてもいい。
どんな建物を建ててもいい。
何を咲かせたいかは
あなたの魂が
知っているでしょう。