第一、第二、そしてその次?
反抗期。
子供は育つと親から自立していく。
これは当たり前の摂理。
そして自立の手前に「反抗期」というものがある。
反抗期とは「親や大人に対して反発心抱く時期」と一般的には言われ、幼児期に第一反抗期(いわゆるイヤイヤ期)、思春期に第二反抗期、 と言われている。
反抗期の本質とは
これまで無自覚に受け入れ同一化していた「親の価値観」に違和感を感じ始め、そうではない「自分の価値観」を選択していく
ということである。
それが、幼児期にはシンプルな「イヤ!」という意思表示として、思春期には思春期なりの感情の揺れとして、それぞれの発達段階に応じて現れるということだろう。
それが「第一/第二反抗期」といわれるものである。
しかし、私はさらにその先、成人した後にも「第三反抗期」が存在するのではないか?と
これまで多くのカウンセリングのクライアントさんや受講生さんと接してきて思うようになった。
成人後の第三反抗期とは?
第三反抗期とはどういう状態なのか?を、わかりやすくbefore→after の流れで述べてみようと思う。
第三反抗期以前
・親が自分よりも正しく強大で「上」の存在だと思っている
・親が正しいと言っていたこと(価値観)をそのまま信じて従っている
例:親が良いとした学校や職業、人とのつきあい方、お金の使い方、「世間とは」のような世界観。場合によっては結婚相手等まで
・親の価値観に合わせて従うことで、親が喜ぶ、自分が褒められる、というところに感情的な報酬(安心・満足)と、生存の安全(居場所の安定)を得ている
・親の正しさや大きさが自身の拠り所なので、親の間違いや欺瞞や未熟はなかなか認められず、そんな事実は見たくない思いが強い
・自分の中に「自分独自の本心」が芽生えたとしても、自分内に取り込んで脳内で同一化した「内なる親の声」が、そんな自分を責めて罪悪感を生じさせる。
・自分の感性や価値観がわからず信じられなくなるため、自分軸がなくなり、自分自身を否定したり、自分に無理をさせる生き方になる。
・自分に無理や我慢をさせている分、実は無意識では怒りを溜めている(抑圧)。その無意識の抑圧が外に噴出し、向けやすい誰かに怒りや批判の矢を向けて、他人に我慢や無理を強いるという行動につながりがちである。
このままいく人と、次へ突破する人がいる
このような症候群が、第三反抗期以前の状態であるといえる。
この状態が必ずしも悪いわけではない。
何が幸せかはあくまでも本人次第。
いつも正しく強大な「上」の存在を仰ぎ、それに合わせることで守られて生きることに安心を感じる人や
それによって「自分」というものが薄くよくわからなくなっていたとしても、さほど違和感なく生きていける人は、この世界に留まることになる。
そういうわけで、必ずしも全員に「第三反抗期」が訪れるわけではないのだ。
しかしその中から、どうしても「自分」というものが内から疼き、土の中から押し上げるように芽吹こうとする力に魂が駆り立てられる人には、次がやってくる。
第三反抗期の前兆
・これまでさほどの疑問もなく親の価値観を良いと信じて生きてきた人生に、窮屈さを感じるようになり、苦しさが年々増すようになる。しかしなぜ何が苦しいのか、自分ではなかなか理由がわからない。
・まだ脳内で同一化した親の価値観が強いため、その価値観に添わないと思われる自分自身に罪悪感に苛まれる。しかしそのまま生きることにも行き詰まる。
・「本当は嫌だ、本当はこうしたい」という「望む自分」の声と、「何言ってるんだ、そんなのはダメだ」という「否定する自分」の声が心の中で激しく拮抗するようになり、この期間が長く続く。
・上記によって「したいのに、できない」「変えたいけど、こわい」という葛藤のまま動けない状態が長く続く。
このような状態を、私たちカウンセラー/セラピスト界隈では「エッジに立つ」あるいは「デッドゾーン」という言い方をする。
第三反抗期で起こること
・長らく拮抗していた「親の価値観:自分の感性」の比率が、自分の感性側にぐっと重量を増すようになる。
・親が正しいとしていた価値観が、必ずしも自分の感性に合っていないことに気づく。
・親が絶対的に正しかったわけでもなく、ただ一個人の一見解にすぎなかったこと、「ただ自分が思ったように言ってるだけ」だったことに気づく
・これまでの親の理屈や行動やふるまいに、矛盾・論理破綻・理不尽・嘘・ご都合・未熟・弱さ・浅さ・・・等がずいぶん含まれていたという事実に気づいて、とてもがっかりする。
・親もまた、無力な子供から育ち、傷つき悩み、不安で自信がないまま必死に走り続けてきた一人の人間であったことに気づく。
・これまで自分よりも正しく強大で「上」の存在 だと思ってきた親が、普通に自分と変わらないただの人であったことを知り、「親=神ポジション」から降下する。
・それに伴って自分自身は、これまで「正しく強大な上」に対して見上げて自分を下げていた「自分=奴隷ポジション」から上昇し、親と自分がやっと同じ地面でフラットに立つ「人間」存在となる。
第三反抗期後
・親は親でその時代、その世代としてのベストの価値観を使って懸命に生きていたことを認めることができる。
・自分自身が親とは世代が違うことが腑に落ち、自分独自の感性と価値観を持つことに「当然だ」という納得感と肯定感を持てる。
・たとえそれが自分にとっては理解しがたい姿であったとしても、親は親として親の価値観で生きればよい、と手放せるとともに、自分は自分として自分の価値観で生きてよいのだと自己肯定できる。
・逆に、一度距離をとって見られたことで、あらためて親の価値観に自分も共感し、自分の意思としてそれを再選択するという場合もありうる。
・お互い価値観が違うもの同士として、否定するでもなく入り込みすぎるでもなく、つき合える部分で接点を持ってつきあっていける。
・親の言うことでも、自分が嫌なことは嫌といえる、断れる。親が理不尽な振る舞いをしたとしたら毅然と怒れる。自分の境界を自分で守れる。
・義務やプレッシャーではなく、自分がしてあげたいと思うようにしてあげられることをする、という自然体の「親孝行」になる。したくなければしない、ということにも罪悪感を感じなくなる。
・つまり、しなやかな強さと優しさをもった自分軸、である。
第三反抗期は精神的自立のプロセス
いかがだろうか。
このようなプロセスを、私は第三反抗期と呼んでみたのである。
冒頭に書いた、反抗期の本質とは
これまで無自覚に受け入れ同一化していた「親の価値観」に違和感を感じ始め、そうではない「自分の価値観」を選択していく
ということであると見る。
これが本当に起こるためには、幼児(第一反抗期)ではもちろん無理であり、まだまだ扶養され庇護されて生きざるを得ない思春期(第二反抗期)であってもまだ無理なのだ。
経済力・生活力を得て、自分の責任で行動できるようになった成人以降だからこそ、そこで本当に親の価値観に対する検討・揺さぶりが起こり、さらに分離・独立・再選択が起こりうるのであり
その先の、フラットな人間同士としての 尊重・共存・相互扶助 へと至れるのである。
これを「精神的自立」という。
たとえ経済的自立・生活の自立をしていたとしても、先ほど書いたような「第三反抗期以前」の段階、つまり価値観と正しさの拠り所を無自覚に信じた「親の価値観」において生きているうちは「精神的自立」をしているとはいえない。
真の精神的自立は、これまで信じてきた「親の正しさ」が揺らぎ崩れる、という体験の先に訪れる。
それが、第三反抗期。
第三反抗期は、第一や第二のように、直接的に親に歯向かったり当たったり、といったような行動を伴う必要がない。
何といっても大人ですから。
ふるまいは穏便に大人でいいのである。
もちろん場合によっては、これまでやったことがなかったような親への歯向かい方を実際にする必要がある人もいるかもしれない。
それはそれでよかったね!おめでとう!である。
しかしあくまでも、第三反抗期が起こるのは「自分の内」であり、精神的な変容のプロセスのことであると思ってほしい。
「がっかりすること」の恐れ
この第三反抗期において最も重要なカギが
親にがっかりすること
なのである。
しかし、このことを恐れる人はとても多い。
上であり神にも等しい親のことを、かりそめにも悪く思ったり軽く言ったりすることは不謹慎!という儒教的な価値観が日本人には強いため
親の矛盾や理不尽や未熟を直視することさえ、畏れ多いことになるのだ。
申し訳ない、悪い気がする、かわいそうな気がする、不遜、親不孝・・・といった罪悪感が、自分にそれを見させることを阻止するのだ。
ここに、精神的自立のステージに飛ぶかどうかにあたっての「深い河」があるように思う。
しかしこれに向かって勇気を出して直視し認めた人が、この河を見事に飛び越え、精神的自立〜相互扶助のステージへと飛翔する。
それが、成人後おおむね40歳前後(現場の実感値)で起こることが多い「転機」のパターンである。
そして「日本人論」へ
さて、ここまで「第三反抗期」の概念をお伝えしたところで、次回はこれをさらに大きな「日本人」というマクロの目線で考察したいと思う。
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