泣きたいんだから
泣かせといてやれよ。
ただ泣きたい時だってあるんだよ。
怒りたいんだから
怒らせといてやれよ。
あなたのせいじゃないからいいんだよ。
黙ってるなら黙らせといてやれよ。
ただ自分のことを
味わいたい時だってあるんだよ。
苦しい時は苦しませてやれよ。
苦しんだ末に
みつけたいことだってあるんだよ。
24時間365日笑顔でいろなんて
どういう拷問なんだよ。
あなたが大切な人が
泣くことも
怒ることも
黙ることも
苦しむことも
許してやれよ。
人間やってるってことは
それ全部
やりにきたってことなんだよ。
それをする自由を
尊重してやれよ。
安心してそれができるように
半分背を向けながら
見守ってやれよ。
それだって愛の一つなんだよ。
****************************
何かを「してあげること」が愛だ、と漠然と思っている人は多いです。
だから何でも、すかさずしてあげちゃう。
してあげなくちゃ!って力が入っちゃう。
泣くことや怒ること苦しむこと、いわゆるネガティブな感情になるのはよくないのだ、と漠然と思っている人も多いです。
だから、大切な人にはそういう感情を味わわせないように、先回りして対策をとりまくってしまう。
大切な人がそういう感情になった時に、すかさず「機嫌を直させよう」と浮き足立ってしまう。
でも、それってその人自身のいのちの流れを邪魔してることもあるのです。
100%邪魔とは言わない。
けど見極めが必要です。
自分自身の愛の定義を振り返ってみましょう。
「してあげることが愛」
「かわいそうだと思うことが愛」
「苦しませないことが愛」
それだけを愛だと思っていないか?
もしかしてその裏に「そうしないとダメになる」という恐怖が張り付いていないか?
大切な人に、笑顔ばかり強要していないか?
だったらそれは本当に「愛」なんだろうか?
愛はきっと、全方向、360度、いろんな姿があります。
自分自身の「愛の定義」を検証して、進化させていくことも必要。
そこに「信頼」はありますか?
信頼も愛の一つの姿なのです。
それは「対・誰か」だけのことではありません。
自分自身に対しても。
泣くことも
怒ることも
黙ることも
苦しむことも
許しているか?
それをする自分を尊重して、自由にさせてあげているか?
そういう自分を信頼して見守っていられるか?
実のところ、そういうことです。