災害や人の不幸があると、直接影響のなかった人が「自分には何もできない」といって罪悪感が出たり、自分を責めたりしちゃう人が多いみたい。
でもその感情は古くからある集合無意識を拾って反応してるだけだから、振り捨てていいと私は思ってて。
それ、自分のじゃないから。
してあげられてない、できていない罪悪感。
マクロでいったら、個人よりすっごく奥深くにある、古くからある人類的な集合無意識のプログラム。
ミクロでいったら、子供が母に対して持つプログラム。
「お母さんを幸せにしてあげなきゃ」っていう謎のミッション感と、無力な自分にはそれができなかったという挫折感。
「それゆえにお母さんは不幸なままだ」という一方的な決めつけと、「私のせいで」という罪悪感。
今感じているその感情は、過去のこの感情が刺激されて蘇っているだけだったりするし、で、それ、もういらないと思うんだよね。
災害や人の不幸で罪悪感が揺さぶられる人は、そこのところまで見てみるといいと思う。
べつに見なくてもいいけどね。
そして人は、集合無意識のカラクリ上、なにかあれば罪悪感にスイッチが入るようにできている。
そういう仕組みが自分の中に仕込まれてるんだ、ってことも受け止めているといい。
だからこそ、それは自分じゃない、ということだし、無自覚にそれに乗せられていたら自分を見失う。
その罪悪感をいったん手放したところから、ただ「やれることはやるし、やれないことはやれない。そして私は私として生きる」っていうニュートラルなスタンスが始まる。
でもね、罪悪感が生じるのは、その奥にもともと大切に思う気持ち、つまり愛があるからこそ!ということもできるんです。
それも受け止めていい。
ただ、その表現がなんだかねじくれて罪悪感に変質しちゃってるんだと思います。
「罪悪感はいらない」っていうのは「もうねじくれなくていい」ってことです。
そんな元を思い出して還ってゆくこと。
そして過度にテレビを見ないことも、ニュートラルでいるコツかもしれません。