エッジに立つ人に起こっていること
人生や自分自身に行き詰った時。
これまでのやり方がもう通用しなくなったことがわかってしまった時。
長年続けてきたガマンがもう限界になってしまった時。
そのような時、多くの人は「変わらなきゃ・・・変わりたい」と思います。
しかしそう思ったとたんに「こわい」という気持ちがやってきます。
変わりたい。
でもこわい。
この「怖さ」。
これとどう折り合うのか、超えるのか、
それが最大のテーマとなってきます。
あるいは、これまでの自分に行き詰った時、心理の知識や心のあり方についてのヒントを求めるようになる人たちも多いです。
そうすると「突破口のカギは自分の心の中を見ることなんだな」とか
「過去・幼少期の自分の背景が影響しているらしいな」とか、わかってきます。
今まで見ることもなかった、そんな未知の自分を見に行って向き合えば、この行き詰まりを突破できるのかもしれない。
かすかな希望のような、確信のような、そんな光があるような気はする。
しかしそう思ったとたんに「こわい」という気持ちがやってきます。
未知の自分を知りたい。
でもこわい。
やはり「怖さ」です。
変わりたい、でもこわい。
自分を知りたい、でもこわい。
この怖さがあまりに強いと「ああ、無理無理!やっぱりこわくてムリ!」と、足はすくみ、一歩も動けなくなります。
かと言って、もう後ろには戻れない。
でも、一歩進むこともできない・・・
そんな場所を「エッジ」と言います。
人生には、そんな「エッジに立つ」時がやってきてしまうことがあります。
「怖さ」の内訳とは?
さあ、この「怖さ」とは何でしょうか?
いったい何がそんなに怖いのか?
それは、
もし、変わってしまったら
未知の自分を知ってしまったら
これまでの自分が消えてしまう
これまでやってきたことが無駄になってしまう
今までの頑張りがチャラになってしまう
ここまで積み上げてきたものが全部壊れてしまう
という予測ですね。
ここまでこんなにがんばってきたのに
これでいいと思って必死に走ってきたのに
こんなにガマンしてきたのに
それは全てよかれと思うからこそ、やってきたのに!
それが今更「違ってた。無駄だった。」なんて!
という、理不尽極まりないような、残念無念すぎるような、そんな思いも付いてくるでしょう。
私たちは深いところで
「変わる」・「未知の自分を知る」ということは、実は自分の本来のいのちのイキイキとした途方もないパワーを解放することになることだ、とわかっているのです。
そして多くの場合、私たちはその途方もないいのちのパワーをこそ、怖れています。
「そんなものを出したら大変なことになる!」と。
もちろんそれは、ものすごい誤解であり、不当な思い込みであり、無意識レベルにかけられたブロックなのですが。
だからこそ
変わってしまったら、未知の自分を知ってしまったら、そんな「本当の自分」が出てきてしまったら大変なことになる。
収拾つかなくなる。あらゆるものが壊れてしまう。人を傷つけてしまう。そして孤独になって野垂れ死んでしまう・・・・
そういうストーリーを描いて、当然のように信じ込んでいます。
だからこそ、こんなにがんばって、ガマンして、ここまで押さえ込んで、よかれと思っていろんなものを積み上げてきたのに!
それを全部チャラにしたら、自分がなくなっちゃうじゃないかー!!
なくなっちゃうなんて怖すぎる!
それが、変わるのが怖い「自我」の言い分であり、未知の自分を見たくない・知りたくない最大の理由であるようです。
実は「なくならない」から大丈夫
私はカウンセラーとして、このような「エッジ」に立つ人のセッションをたくさん経験してきました。
そして学んだことがあります。
「今まで」はなくならない。
「これまで」が無駄になるわけじゃない。
「自分」は消えない。
だから大丈夫!
変わったその後、未知の自分が現れてそのいのちが生きはじめたその後は、別の原動力で「今まで」がちゃんと生かされるのです。
これまでの自分が培ったもの、やり方、知識、この世で生き残るために取り揃えたあらゆる「武器」は、新しく現れた「いのちの自分」がよりイキイキと生きるための心強い相棒として、道具として、引き続き役に立っていくのです。
そうなるとむしろ、「これまで」のガマンや忍耐や無理な力み無しに、楽に、必要な時にそういう道具を出し入れして使うことができるようになるのです。
だから大丈夫だよ!
というのが、全員にもれなく当てはまる結論です。
自我の思考はどうしても、0か100か、になりがちです。
こっちが正しいということは、そっちが間違いということ。
こっちを選ぶということは、そっちを捨てるということ。
こっちに変わるってことは、そっちがなくなるってことでしょ!?
と自然に考えてしまうのです。
だから、こわい。
でも、いのちの論理はそれを超えています。
こっちも、そっちも、どっちもOKなのです。
こっちとそっち、ともに包含することが可能なのです。
こっちじゃなくても、そっちじゃなくても、なんでもいいのです。
その根底にある、根っこの「いのち」
これがすべてを支え、動かしているから大丈夫なのです。
なにものも否定されず、消されない世界。
そういう場所があります。
エッジに立っているまっ最中には想像もつかないようなそんな別次元の場所が、飛んだ先には待っているでしょう。