ビリーフが自分の「血肉」と化している
前回、「プログラムは自分自身ではない」と見抜いて距離を置くことが大事、という話を書きました。
前回の記事:どうしても自己否定がやめられない人へ。それはプログラムだともう見抜いた方がいい
プログラム・・・それは別の言い方をすると、ビリーフ(信じ込み)のことです。
これまで自分があまりにも当たり前に、そうと信じてやまなかったもの。
いえ、信じているという自覚もないほどに当たり前の前提として自分を支えていたもの。
役にたつと思っていたし
生き残るためには絶対に必要だと信じていたし
世の中ってそういうものだと思ってきたし
だってそうなんだから仕方ないでしょうと思ってきたし
それ以外に考えられないもの。
ビリーフとはそういうものです。
それってつまり、そこまで自分の血肉になっちゃっているようなものなんですね。
いや、実はほんとはそうじゃないんだけど、でも「血肉」ぐらい自分自身だと思ってしまうんです、私たち。
これを「同一化」といいます。
ビリーフ=自分 だと思ってるというのが「同一化」ということです。
私たちが同一化するのは、ビリーフだけに限りません。
考え、感情、過去、記憶、性格・・・といったものにも同一化しているのですが、これ全部言ってると話がややこしくなるので、ここではこれ以上触れません。
とにかく、自分じゃないものと「同一化」してそれが自分だと思いこむ、ということをやるのが、人間の「自我」というものの特徴です。
そうすると、こんなことも起こることがあります。
ビリーフに手をつけようとすると出てくる「抵抗」
自己探求して、ビリーフに手をつけようとすると
「怖い」
「なくなっちゃう」
「こわれちゃう」
「もうこれ以上進みたくない」
「手放したくない」
そういう抵抗感や恐怖が出てくるのです。
それを見つめちゃって、距離を置いちゃって、手放したりなんかしちゃったら、自分がこわれちゃう、自分が自分じゃなくなっちゃう、無になっちゃう・・・!
という恐怖ですね。
つまりこれは、今まさに、見つめられ、手をつけられ、距離を置かれようとしている「ビリーフちゃん」の側の言い分ですよね。
「見破られるー!引き剥がされるー!捨てられるーー!」っていう、ね。
あなたがそう思うってことは、つまり自分が完全にその「ビリーフちゃん」になっちゃってますね。
「血肉化」してるからこそ、自分が生身を引き剥がされるような恐怖を感じるわけです。
それこそが「ビリーフを自分自身だと思っている」ということです。
だからこそ、それがなくなっちゃったら、もう自分がなくなっちゃう!と思うのです。
ビリーフこそが私。
それがなくなったら、無。死。暗黒。
それが、自己探求が怖くなったり抵抗したくなったりする理由です。
だけど、本当は違うんです。
私たちの本質はビリーフではありません。
「いのち」です。
ビリーフが解体されたって、いのちはビクともせずに動いています。
ていうか、余計なビリーフがなくなった方がいのちはイキイキするんですけどね、ホントはね。
しかし、人間自我としてプログラミングされて生きてくると、この「いのち」のリアリティが見事になくなっちゃうんですねー。
「いのち」とかいわれても
「は?? なんだっけソレ?」
「わかるけど絵空事でしょー」
「なんかピンとこない」
みたいになっちゃってる。
そのリアリティがないからこそ、よけいに、ビリーフとか考えとか感情とかモノとか、あらゆる「自分じゃないもの」を握りしめ、同一化して、自分だと思って安心を得ようとするのです。
しかし、その「ビリーフを自分自身だと思っている」というその状態こそが、今までさんざん「苦しい、しんどい、自分なんて」と言い続けてさまよわなければならなかったことの、たった一つの理由です。
だからこそ、その苦しみから脱出する道は「ビリーフが自分自身ではなかったと気づくことだよ〜」と何度も私は言っているのですけれどね。
ただ、これは、そう言われたってすぐに腑に落ちるもんじゃないのも確かなんです。
それほどまでに、やっぱり私たちは激しく「同一化」しちゃってるので。
そして「いのち」のリアリティというのは、究極薄くなっちゃってるので。
じゃあ、どうしたらいいいのさ!
ってことになりますよね。
そこで私は、2つの方向から提案します。
ビリーフの虚構性が身にしみて、いのちのリアリティが高まる
1つめ。
それでも果敢にビリーフ探求に挑み、リセットしきってみる。
これはビリーフリセットだけに限らず、バイロンケイティ・ワークや、セドナメソッドなど、「手放し系」のワーク共通に言えることだと思います。
こわくても突入して、やりきる。
そういう体験をすると、そのビリーフがなくても全然普通に生きてる私、っていうのに気がついてきます。
「アレ、なんだ生きてるじゃん!これでも私、普通にただいるじゃん!」って。
そんな体験を何度もすれば、いい加減、ビリーフが自分じゃなかったってことが腑に落ちてくるでしょう。
つまりそれは、「ビリーフじゃない方の私」・・・私はそれを「いのちそのもの」と言ったり「ただいる、という存在」と言ったりしていますけれども、自分が「いのちそのもの」だったことに気づくということです。
そして、自分がその「ただここに在るいのち」である、というリアリティを高めていくということなのです。
こうやって、ビリーフをリセットしていくことによって、自分が「いのち」であったことに気づいていくプロセス、
つまり
ビリーフの虚構性が身にしみて、いのちのリアリティが高まる、という順番。
これが1つめ。
いのちのリアリティが高まるから、ビリーフの虚構性を見抜けるようになる
2つめは、その逆。
瞑想やいろいろな心理的ワーク、ヒーリングやセラピーなどのさまざまなアプローチによって「いのちそのもの」であった自分に、気づいてみること。
その時だけ、一瞬でもいいのです。
日頃の自我思考から離れて、「あー、すべてがなくなったら、こんなに自由で広くて安心な状態があったんだー!ここに私はいたんだー!」っていう体験をすることです。
これは根拠ない絶対平安のような心境です。
これはある意味、特殊な意識状態なので、どうやったら必ずそういう体験ができるかの絶対的な保証はないのですが、瞑想やマインドフルネスの練習、あるいはヒプノセラピーやジャーニーワーク、コアトランスフォーメーションなどの潜在意識へ降りていくようなワークは、その近道となる可能性があります。
そうやって、なんらかの拍子にそんな場所へと行けてしまうことがあります。
そしたらラッキー。
それ!
それが「いのちそのものの自分」
「ただ在るだけの自分」です。
そこが絶対平安な場所。
それを感じることができたら、ビリーフも含めた自我に類するものから距離を取ることや、それを手放すことは、そんなに怖いことではなくなります。
だって、それを手放したって、最終的に残る「あの、いのちそのものの自分」がいるって、どこかでわかってるからね。
だからこそ、これを体験することは、ビリーフリセットをはじめ、自分の闇や痛みに直面するような心理的ワークのハードルを低くすることができます。
あとはどんどんみつめて、いらんものはポイポイしちゃおうー!
ってなる(笑)
つまりこの2つめとは、
自分が「いのち」そのものであったことに気づくからこそ、ビリーフリセット(含め自我の解除・解放)が容易になる、というプロセス。
つまり、いのちのリアリティが高まるから、ビリーフの虚構性を見抜けるようになる、という順番。
これが2番目ということになります。
同一化から離れ、いのちを生きる
1と2は、人によって違うし、結局は両輪ですから、両方を絶えず行き来しながら重ねていくものであるとも言えます。
ビリーフの虚構性がわかるから、「いのち」である自分を実感する。
「いのち」である自分がわかるから、ビリーフの虚構性を実感する。
このサイクルですね。
そうやって「同一化」から離れ
「みつめる意識である自分」
「いのちそのものである自分」
というリアリティが高まっていくのです。
そのリアリティが「いのち」の側に移動していけばいくほど
余計な思考のプログラムのノイズに乱されずに
「どう感じる」
「やりたい」
「やりたくない」
の感性。
「こうしよう」
「こうするぞ!」
の意図と意思。
そしてそのための方法と行動を
考え実行する
クリアな思考と具現力が
発動していくでしょう。
なぜなら、それこそが
「いのち」の本来の力だからです。
自分が「いのち」である
という自覚を持ったなら
その力を世界に発していきたいと
自然に思い、動くものだからです。
「やりたいこと」というのは
その「いのち」がやりたいことです。
だからこそ
「同一化を離れる」というのは、
自分を生きる、ということの
最重要、かつ最低限の基礎力だといってもよいのです。