正しさ。
それはまるで
すばらしいものであるかのようですが
それゆえに
人を縛り、苦しめるものでもあります。
正しいか、間違いか。
善か、悪か。
そんな二極のモノサシを
超えていく。
意識のアップデートは
そこから始まります。
たとえば休むことの罪悪感
たとえば、休むこと何もしないことに罪悪感を感じる人はとても多いです。
心身が休息を欲している時は、自然と眠かったり、横になりたくなったりするものだから、その声に従ってゆっくり寝てしまえばいいのですが、
邪魔するのが「頭の声」ですね。
そんなことしてる場合か!? とか
それぐらいで甘えるな とか
あれもこれもやらなきゃいけないだろが! とか
人に迷惑かけちゃダメだ とか
時間が無駄じゃないか とか
怠け者だ、ダメ人間だ・・・とかとか
それが「罪悪感」という感覚です。
罪悪・・・要するにその人の中では、休むことや何もしないことが「罪」なわけですよね。
その「罪」を犯してる感じがするのが「罪悪感」というわけです。
でもあくまでも「感」であることに注目。
そういう「感じ」がするというだけで、実際には罪でもなんでもありません。
休むこと寝ることが罪なんて、そんな刑法はないよね?(笑)
しかし、なぜ罪悪感を感じるかというと、その前に「正しさ」を信じているからです。
「役に立つ」が正しいという価値観
何かをしていること、役に立つこと、勤勉なこと、生産性が高いこと・・・それが「正しい」こと。
これまでの時代、日本人全体がそう信じてきました。
それが正しいと信じているからこそ、そうではないことを「悪」と感じ「罪」と感じるわけですよね。
しかしその価値観自体が、時代的・国家的に作られた価値観であることに、そろそろ気がついてもいいでしょう。
明治以降の近代化・工業化社会、高度経済成長を目指す社会において
休まず勤勉で役に立つ、生産性が高い優秀なロボットのような人材が大量に必要とされたのです。
だから、そのような価値観を喧伝して普及させた側というのがいるし
喧伝されたことを丸々信じて、その通りの価値観を取り込んで染まっていった側というのもいるわけです。
そうやって空気のように浸透した価値観、つまり「正しさ」が世代間に受け継がれ、無意識に私たち一人一人の中にも入りこんでいるのです。
参考記事(別ブログ)
罪悪感が消えない理由
「善」があるところ、必ず「悪」が生じ
「正しさ(べき・ねば)」があるところ、必ず「罪」が生じます。
正義感の強い人ほど、罪悪感も強いものです。
だからこそ、罪悪感というものは、その表側にある信じ込んだ「正しさ(べき・ねば)」を問い直して解体しない限り消えないということです。
罪悪感だけ取り出して消すことはできません。
もはや不要な罪悪感であるならば、その表の「正しさ(べき・ねば)」も、もはや不要であるということです。
それは、古い価値観の裏表です。
冒頭の「休む・寝る」の話に戻るならば
休むことや寝ることに罪悪感のある人は、その表側である
「何かをしていること、役に立つこと、勤勉なこと、生産性が高いことが正しい」という価値観を
「それって本当なの?」と問い直してみるといいです。
いきなりリセットできなくてもいいのです。
そんな「正しさ」を、自分はこれまでずっと信じてきたのだなあ!と、まずは感慨深く眺めてみましょう。
そして、それらすべての逆、つまり
「何もしないこと、役に立たないこと、のんびりすること、生産しないこと」にもOKしてみるのです。
そんな自分のこともOKしていくのです。
どちらが正しい、どちらであるべき!
じゃなくて
どっちもあり、どっちの自分もOK!
にすればいいという話。
それがプラスマイナス、振り切ってゼロ。
そこがニュートラルという場所。
本当のマインドの自由であり、選択の自由。
ものごとまるごと大切にする意識とはそこであり
つまり自分をまるごと大切にするというのもそのことです。
自分を大切にできる人が、人のことも大切にできます。
自分をゆるせる人が、人のこともゆるすことができます。
個性を受け止めあい、いのちを生かしあうやさしい社会は、そんな意識の変革から始まります。
「正しさ」を疑え
「正しさ」を問い直せ
「逆」を受容せよ
プラスマイナス、振り切ってゼロ。
全方位OK。
ビリーフのリセットとはそういうことです。
意識はアップデートはここから始まります。