「私、本当はなに感じてるの?」
「私、本当はなにが嫌なの?」
「私、本当はどうだったらうれしいの?」
それはとても深い問いかけです。
そして、そんなふうに自分に問いかけることは、とても自分に誠実で思いやりのある姿勢です。
「私、本当はなに感じてるの?」
「私、本当はなにが嫌なの?」
「私、本当はどうだったらうれしいの?」
その答えを持っているのが感性です。
行き詰まり・強制終了
「感性」というのは人生の転機にある時、非常に重要なキーワードになってきます。
いわゆる「行き詰まり」というのは、過剰に理性でばかり生きてきたことの限界である場合が多いからです。
たとえば鬱病。
私は医師ではないので医学的な見解は知りませんが、少なくとも私が学んできたセラピーや心理カウンセリングのフィールドにおける見方では
「こうするべき」「こうであらねば」と突っ走る頭(理性)が
その「べき・ねば」をひたすら遂行するべく
「こうしたい」「これはいやだ」という感情(感性)の声に蓋をして、
自分にムチ打って頑張り続けた先の「強制終了」であると、解釈します。
ですから私にとって鬱は、いわゆる「病気」には見えません。
あえて病という言い方をするなら、
理性偏重病であり、我慢しすぎ病であり、ビリーフにやられすぎ病。
というかんじですね。
理性で突っ走れる「高キャリア」の人
私のセッションや講座にも、過去に鬱を経験したとか、鬱で休職したことがある、なんていう方がけっこういらっしゃいます。
そういう方たちは、親や社会に引かれたレールに忠実にきちんと乗ってまじめにがんばってきた、高学歴・高キャリアであることも多いです。
まさにそういう方たちは、子供のころから「理性」をフルに使いこなしてきたので
「感性」の声をつぶしてでも「理性」でどこまでも突っ走れてしまうのです。
理性が、親や他人、組織や社会などの「外なる要請」に答えようとして、内なる感性の声を
聞かない、相手にしない
出てくるなという、押しつぶす
消えろという、殺そうとする
ということを何年もやってきたわけです。
それは、自分が自分にふるう内なる「暴力」です。
それによって打ちのめされてしまった感性の最終的な姿が
・身体が動かない
・気力がもう出ない
・わけもわからず涙ばかり出る
・死にたくなる
といった状態として現れてくるのだと、私は解釈しています。
打開の鍵は感性
ですから、こういう時の打開の道は「感性を取り戻し、感性に戻る」こと。
自分の中にも「感性」というものがあり、それがいかに「理性の自分」によって押し込められ、虐げられてきたか、ということに気がつくことが、癒しと新展開の一歩になります。
もちろん、鬱の事例だけではありません。
そこまで限界にならずとも、
何か生きづらい、
これまではよかったけどなんだかもう違う、
もっと違う活躍の仕方があるはず、
もっと自分らしい幸せがあるはず、
といった気持ちが芽生え始めた時に、鍵となるのはやはり「感性」なのです。
カウンセリングは、そういった「感性の自分」を取り戻し、「感性」を信じてみる生き方へと一歩踏み出すためのお手伝いであるともいえます。
学校では教えてくれないから
現代社会では、学校教育も会社組織もマスコミも、なかなかそういうことは教えてはくれません。
これまで強固な「理性偏重」によって回ってきたのがそれらのシステムですから。
だからこそ、「何かおかしい」と立ち止まった人は、自分から探しに行く必要があるのです。
探したからこそ、きっと何かに出会うことができます。
出会ったからこそ、知ることができます。
これまでの「理性の自分」では全く思いもつかないような、全く違うものごとの見え方と道のりが存在することに目が開かれる世界。
そうやって、まだ知らない世界、まだ知らない自分を見ることの豊かさと広がりを知った時
「そろそろ生き方を変えてもいいかもしれない」と、思える時がくるでしょう。
今、行き詰っているのなら
今現在、行き詰っている人にぜひ伝えたいこと。
行き詰ったということは、「これまで」を超えるものに出会いたかったということです。
理性に押し込められていたとしても、その下で変わらずに息づいている「感性」が、出会えるよう仕向けるものです。
これじゃない何か。
きっともっと本質的で、納得のいく何か。
きっとそこまでして知りたかった何かが自分にはあるのだろう・・・と、
自分の知らないところで変わらずにはたらいてくれていた、ご自身の「感性」を、信じて受け取ってあげてもよいのかもしれません。