本当はほしいもの
おそらくですけど、「人と心が通うこと」 というのは、多くの人が実は本当に望んでいることはないかと思います。
そんなのどうでもいいと思っている人も
そんなことしょせんムリ!と思っている人も
心?よくわかりません という人も
たくさんいるとは思います。
けど、そう思うには思うだけの理由、つまり昔々にそれを望んだのに得られなかった、叶わなかった、という傷つきやがっかりがあって
「もういいや!」とフタをして、もうそんなこと思わなくなってしまった場合も多いのです。
でもそうやって寂しさや虚しさを心に秘めて生きていますよね。
多くの人がそうです。
だってみんなよく「わかってほしい」「認めてほしい」って、しょっちゅう思ったり言ったりしてるでしょう。
それは決して、容姿や持ち物や肩書きや実績などをわかってほしい、認めてほしい、なのではなく
その奥の「本当の自分」、つまり自分の心の内側や、本当の気持ち、自分の存在そのものを「わかってほしい認めてほしい」なんですよね。
「バカにされた、邪険にされた」みたいな怒りだって、それってつまり「大切にしてくれない」という悲しみであり、ということはつまり「大切にしてほしい」って望んでるってことですよね。
わかってほしい
認めてほしい
大切にしてほしい
ほんとはそれが、ほしかったものです。
で、ごく稀にそういうことが実現したりすると、「私の気持ちをわかってもらえたー!大切にしてもらえたー!」ってものすごく嬉しかったり心が満たされたりするでしょう。
それは「心が通った」という実感なんじゃないでしょうか。
望んでいるのにできないのはなぜ?
じゃあ「心が通う」をそんなに望んでいるのに、どうしてなかなかそうはできないんでしょうか。
だってあの人がこうだから、ああだから。
あんな人じゃとても無理・・・・
もちろん、そういう無理な人もいるかもしれないけど。
でもその前にね。
自分自身が、自分の心をとっても恐れているから。
こっちを先に見ましょう。
自分の心。
それは何かこわいもの、汚いもの、見てはいけないし、見せてはいけないもの・・・って感じてたりしませんか?
そうやって押入れの奥に隠して、自分でもめったに見に行かないし
見えてしまいそうになると他の気晴らしをして目をそらすし、
人からそこを見られないように、入られないように、どうでもいい話で煙幕をはったりするし
自分自身のキレイなものについてだって、「おこがましい」とか「照れ臭い」とか「恥ずかしい」とか言って否定して、やっぱりフタをしてしまいます。
自分も見せたくないし入り込まれたくないから、人のも見たくないし入り込まない。
結果、当たり障りのない、テレビで見たようなことについての話や、関係ない他人の話しかしない。
その裏では、しまいこんだものがどんどん毒になって溜まっていきます。
そんな状態でたまに「言いたいことを言う」というと、それは「心が通うための話」ではなく、 「たまった自分の毒をぶつける話」になってしまう。
それでは相手も受け止められないですから、心が通いようもありませんね。
だから、どんなにぶつけても、心が本当に満たされることはないのです。
「心が通う喜び」を得るには?
望むのに得られない「心が通う」喜びを、得るにはどうしたらいいのか。
それはまず、自分が自分に心を開くことです。
自分の心、感じているもの、を、恐れず嫌わず目を背けず、まず自分が丁寧に見ること。
そして「そうなんだねー」と受け止めることです。
「そうなんだねー」が自分に言えるようになると、他人のことも「そうなんだねー」と受け止められるようになります。
「心が通う」とは、自分が誰かから受け止めてもらう、という一方通行ではありません。
まず自分も、誰かの心を、ちゃんとそのまま受け止めて、自分の心に入れること。
つまり自分が「受け取る」ことと同時です。
人の深い思いや心を、恐れず嫌わず目を背けず、まず自分が丁寧に見てあげて、受け止めてあげること。
そして、それと同時に、自分の心の中身も少しずつ、恐れず嫌わず目を背けず、他人にしっかり伝えてみることです。
こういう心の使い方やコミュニケーションに、多くの人は慣れていません。
でも、心の世界の学びをすると、だんだんそれができるようになっていきます。
心の学びをした者同士が友人やカップルになるとそういう話ができるから、満たされる関係性へとどんどん近づいていくことができるのです。
自分の心を恐れず嫌わず目を背けず、自分が丁寧に見てあげて、受け止めてあげる。
そこから始めることです。
だからこそ自分の心に触れにいく
私のカウンセリング/セラピーの師匠である、岡部明美さんと私と立花岳志の3人で毎年開催している「湘南ワークショップ」が今年もあります。
自分自身の心、そして感性には、まだまだ未知の領域が膨大にあります。
だからこそ、そこを開いていくことは、人生の可能性の扉を開いていくことになるのです。
それは「これまでの生き方」からの卒業でもあります。
「心を見ない・触れない・関わらない」で、外側から押し寄せる「べきねば」に翻弄されるだけで、とりあえず当たり障りなく続けてきた人生にもうほとほと嫌気がさしていたとしたら
それは転換の時です。
行き止まりであるかのように見えていたとしても、「心・感性」という次の扉がちゃんとあります。
湘南・葉山の環境で非日常の3日間をともにする中で、ご自身の心・感性を発見してみませんか。
詳細については講師の一人、立花岳志くんが書いています。
私たち、去年までは夫婦でしたが、昨年暮れに籍を抜きました。
でも、お互いに心を学び、上記で書いたような「自分の心に向き合い、自分の真実を相手に伝え、受け止め合うコミュニケーション」を長年に渡って構築してきたので、
世間でイメージされるような
離婚=争い、憎しみ、血ミドロの闘いの末、断絶!
みたいなことには全然なっていません。
現在も、同じ方向を向く仕事のパートナーとして、またおたがいの人生を尊重しあう「ライフメイト」として良好な関係が続いています。
まさに「心を学ぶとこういう関係ができるよ!」のいい見本例にもなると思いますんで、ご心配なくお越しください。
ご縁のある皆さんとの出会いを楽しみにしています。