いのちは生きるためにある
いのちはほっとけば
どんどん伸びたがるし
ますます燃えたがるし
いきいきと生きたがるもの。
なのにどういうわけか私たちは
知らないうちに
自分のいのちを
消す方へ、抑える方へ、切り詰める方へと
一生懸命になっていく。
こんな自分は出してはいけない
こんな自分はいてはいけない
こんな自分はいては迷惑だ
こんな自分は愛されない
そう言って
自分の奥に燃える本当のいのちを
消そう、消そうとしはじめる。
伸びた先から枝をバサバサ切って
地面から出そうな芽には必死で土かけて
燃えそうになった火にあわてて水かけて
そうやって
いのちを嫌うようになっていく。
生きるためには
誰かの顔色をよくしないといけないと思い
誰かの顔色をよくするためには
自分を殺さなければいけないと思う。
だってそうしないと生きていけないと言う。
ちょっと待って
自分を殺さなければ生きていけない?
殺して、生きるの?
それっていったい
生きてるの?
死んでるの?
なんという言葉の矛盾だろうか。
自分が死んでるんだったら
いったいそこで生きてるのは誰なんだろう?
生きるとは、自分が生きることだ。
自分が自分のいのちを生かすことだ。
いのちが生きていることを
生きるというのではなかったか。
枝を切り落とし
出そうな芽には土かけて
火をくすぶらせて
そうやってほぼ死んだいのちになって
かろうじて身体が動くくらいの力を温存することを
「生き抜いた、大丈夫」という。
自分を殺して得るものがそれって
本当に大丈夫なんだろうか。
「自分を殺さないと生きていけない」
これは旧世界の
支配と従属の枠の中で組み込まれた
老獪なプログラムだ。
マクロである社会から
ミクロである親子まで
くまなく張り巡らされたプログラム。
だから、そう思っていたとしても
あなたが悪いわけじゃない。
まんまと仕込まれただけだ。
そして、このプログラムを見破り
プログラムを壊し
支配と従属という枠から出て
そうじゃない世界に変わっていくのが
これからの新世界。
そのチャレンジをしたいか、したくないか
それは各自に任されている。
チャレンジしたい人は、まず
自分の中で生きたがってるいのちに
気づいていこう。
そのいのちを生かすことを
自分自身がしていこう。
ほっとけばどんどん伸びたがる
そのいのちを
好きなだけ伸ばしてあげよう。
ほっとけばますます燃えたがる
そのいのちを
好きなだけ燃やしてあげよう。
だっていのちは
生きてるんだから。
生きるのが
いのちなんだから。
そしてあなたは
生きているはずなんだから。
そんないのちを起動したい。
もう
伸びていいんだよ
出てきていいんだよ
燃えていいんだよ
ほんっとに、もう生きようよ!