私たちはほんとは、やりたいことをやりたい。
思ったことを言いたい。
自分の気持ちを伝えたい。
自分を表現したい。
こうだと思ったことを実行したい。
だけど、そんなことはなかなかできない。
・・・と思っている人は多いです。
やりたい自分、したい自分にストップをかけるもの。
それは
「そんなことをしたら、たいへんなことになる」という
漠然とした怖れだったりします。
「〇〇したら、たいへんなことになる」というのは
典型的なビリーフです。
だから、決して〇〇はしない。
怖くてできない。
こうして私たちは
「やりたい、したい」にストップをかけます。
思い込み。信じ込み。
それがビリーフです。
いえ、もっと言えば、
思い込まされ。信じ込まされ。
私たちは、いつか昔、どこかで、
誰かに、何らかの形でそう思い込まされてきたし
あるいは、誰にも言われていないのに
自分から進んで、そう思い込んできました。
良かれと思って。
でも、ちょっと考えてみましょう。
その怖れている「たいへんなこと」って
中身は具体的には何でしょうね?
おそらく
失敗する、変に思われる、冷たい目で見られる、
嫌な顔をされる、嫌われる、怒られる、叩かれる、
受け入れてもらえない、
愛してもらえない、
仲間に入れてもらえない
というかんじでは?
そして、そんなことになったら
傷つく、見捨てられる、孤独になる、
安住できない、村八分になる、
クビになる、露頭に迷う、
生きていけない、のたれ死にする・・・・
というストーリーがもれなく続いているのでは?
でも、ちょっと待って。
それは本当なんでしょうか?
あるいは「たいへんなこと」とは
誰かを傷つける、嫌な思いをさせる、
がっかりさせる、悲しませる、
和を乱す、何かを壊す、
を意味していたりすることもあります。
それは一見、思いやりや愛情のように見える危惧だけれども
実はそうしてしまった結果、やっぱり自分が
嫌われる、仲間はずれになる、傷つく
見捨てられる、孤独になる・・・
ことが怖いし、
そんなことをしてしまった自分が
悪くて、いけなくて、罪深い人であるような気がするし
結果としてやっぱり
嫌われる、怒られる、
安住できない、村八分になる
クビになる、露頭に迷う、
生きていけない、のたれ死にする・・・・
というストーリーを想像している。
それが怖いわけです。
でも、それは絶対に本当なんでしょうか?
自分に問いかけてみましょう。
そもそも、私の「したいこと」とは、
そんなに人に危害を加えるほど危険な行為なんだろうか。
私の「気持ち」とは
そんなに人を傷つけるようなトゲや毒ばかりなんだろうか。
私が何かしたり、何かを言ったりしたら
本当に日本中、全世界、
すべての人が私のことを嫌いになるのだろうか。
誰かに悪く思われたら
本当に生きていけないのだろうか。
共感してくれる人は、本当にいないのだろうか。
波風立つとしたって、
実のところ周りの数人だけだったりしないだろうか。
波風立つことは、本当にいけないことだろうか。
波風を超えた先の、新たな可能性はないのだろうか。
そもそも、絶対に波風が立たない人生って
あるんだろうか。
その波風に向き合えるような、知力・能力・体力は
私にはないのだろうか。
そもそも、それをした結果、
本当に波風が立つと、絶対に言い切れるのだろうか。
人間関係が入れ替わり
人生の舞台が移り変わるということは、
あり得ないことだろうか。
ものごとが変わるということは
必ず悪い方へ向かうということなのだろうか。
行き着く先は、露頭に迷ってのたれ死に。
それは本当ですか?
自分はそんなに無力で、無知で、無能で、
何もできない存在なのだろうか。
考えてみたら、もう私は大人で
知力体力も普通に兼ね備えて
何年も学校に行って勉強もしてきて
それなりに仕事もして、日々を営んで
それだけの知性と良識と甲斐性のある人ではなかったろうか。
それなのに
本当にそんなに「たいへんなこと」になるのだろうか。
・・・・??
もちろん、この問いかけに「正解」はありません。
「こう思ってはいけない、思わなきゃいけない」
ということでもありません。
探求してみているだけです。
ガチガチになった頭をほぐす、運動です。
「〇〇したら、たいへんなことになる」
「〇〇しないと、たいへんなことになる」
実は私たちは、あまり深く考えずに
こうやってたくさんの「たいへんシリーズ」をやっているものです。
そんな考えが浮かんでいることに気がついたら、
本当にそれは「たいへん」なのか。
何のことを「たいへん」だと思っているのか。
ちょっと立ち止まって
それは本当なんだろうか?
と自分に問いかけて検討してみると、
新しい視点を得られるかと思います。