今朝、目が覚めるか覚めないかぐらいの意識の時に、昔出会った嫌な人のことが浮かんだ。
ぶわー、なんでこんな朝イチでそんな人のこと・・・と思ったけど、そこでこんな言葉を思い出した。
「嫌なものも、嫌いな人も、汚いものも、自分の中で愛に溶かしてゆくのです。それが統合。」
「おお、そうだった、やってみるか。」と意識の中にその人を取り込んで愛に溶かしていくイメージをした。
そうだったのだ。
嫌いな人も、恨んだ人も、憎んだ人も、切り捨てた人も、忘れようとした人も、実はみんな自分自身だ。
その意味がドーンと腑に落ちた。
ああ、私、もう過去だからと忘れたつもりで実は切り捨てっぱなしの人、いるわー!と気がついた。
あえてずーっと昔から思い出してみることにした。
そしたら、でてくるわでてくるわ・・・
◯◯さん、△△さん、□□さん・・・
顔も名前をちゃんと出てくるその人たちは、だいたい音楽関係の人たちばかり。
よっぽど音楽業界に恨みが積もってたんだなー(笑)
ああ私、あの人たちのこと、みーんな心の中でジャッジして、切り捨てて忘れてきたなあ。
でも、みんなその時は私に何かを見てくれて、関わろうと思ってくれて、それぞれに何かを与えてくれていたのだった。
それをやっと実感した。
そう思ったら自然と
「ありがとう」
がわいてきた。
でも私はこれまで、そんなことより、自分からジャッジして離れて切り捨ててたなあ。
今となっては恨む憎むはそんなになかった。
だからもういいと思っていた。
でも、それは切り捨てて忘れようとしていたところも、多分にあったのだなあ。
「ごめんなさい」が自然とわいてきた。
ああ、これはアレだ、ホ・オポノポノ(ハワイの医師ヒューレン博士提唱のシンプルなメソッド)だな、と思って、そのまま
「ゆるしてください」
と祈り
「愛しています」
と愛に溶かした。
まさにこれが統合ってことだよねー、と実感した。
嫌って切り捨てた「人たち」というのは、心の中において「自分」なのだ。
心の中に浮かぶその人たちは、私の記憶・マインドの一部である。
それを切り捨てているということは、私の一部を切り捨てているということなのだ。
それをこうして呼び戻し、感謝し、許し、愛の中に一つにしていく。
その時「統合」が起こる。
「おかえり、私」の瞬間だ。
おかえり、わたし。
ごめんね、ごめんね、
切り捨ててごめんね、わたし。
思い出していくともう棚卸し的になって、嫌い云々を問わず、思いつく人全部思い浮かべていった。
あの人も、この人も
あーーあの人もだわ
みんなからもらったものがそれぞれにあった。
そんなみんなを心の中で突き放していた私がいた。
それは、心の中で突き放されていた私だ。
ありがとう、みんな。
ごめんね、みんな。
ゆるしてね、わたし。
おかえり、わたし。
そう思うたびに、自分の身体の左側がどんどん豊かに広がっていく感覚があった。
なるほどねー、左側、女性性ね。
過去から現在に至るまで、いろんな人を思い出して統合していくほどに、その感覚は左側から真ん中、さらに右側へと領域を広げていった。
その人たちのパワーを、もらっている。
そのパワーを携えて、これからいこう。
そう思った。
嫌いなものを自分の中に入れて、愛に溶かすというのは、ちょっとゾッとする人も、「ムリ!」って思う人もいるかもしれない。
感情が生々しいうちは、けっこうキツいよね。
チベット密教には「トンレン」という瞑想修行法がある。
人の苦しみや、世界の嫌なこと、汚いことを、呼吸とともに吸い込み、自分の中で愛に変えて吐き出すのだそうだ。
私はちょっとやってみたことがある。
勇気がいるけどけっこうパワフルだよ。
愛ってそれだけ強くて広いもんだって、実感することができる。
今朝私に起こったことは、それに似ている。
でもやらなきゃといってできるものではなくて、きっとタイミングなのでしょう。
大晦日。
来年に向けて私に必要だったことだと、よくわかる。
ありがとう。
ごめんなさい。
ゆるしてください。
愛しています。
おかえり、私。