わからなければ対処しようがない
貪るのはいけない!貪るのはやめよう!
と思っても
怒るのはいけない!怒るのはやめよう!
と思っても
煩悩をどんなに
断とう!捨てよう!なくそう!としても
また出ちゃった、またやっちゃった、
我慢しきれなかった・・・
またか、またか、の繰り返し。
やっぱりダメ、やっぱりムリ、
やっぱり自分は・・・
失望と自己嫌悪と諦めの繰り返し。
どうしてそうなるのかというと、
感情として現れてくる煩悩は、その奥の無意識領域に「製造元」があるからです。
これまでの記事
私たちの無意識(別名・潜在意識:自分でわからない意識の領域)には、
欠乏感などの漠然とした前提となっている感覚や、数々のビリーフ(信じ込んだ考え)、
過去の痛い感情などの諸々がテンコ盛りになっています。
と言われても
「ん??そうかな?よくわからないな?」
と思われたとしたら
まさにそれこそが「無意識」ということです。
はっきりあるとは思えない。
あるとかないとか、わからない。
無意識ってそういうかんじ。
その無意識領域にあるアレやコレやが、煩悩という苦しみを生み出しているのですが、
いかんせん自分でわからない領域にあるので、わからないんです。
わかってれば苦労はしません。
対処もできます。
でもわからないから
わけもわからずずっと苦しむ。
対処のしようがない。
やっかいですね。
これ!
この 無意識下にあって自覚できず、
わからない ということ。
もう少し簡単にいうと
自分で自分のことがわからないこと。
これがすべての苦しみの根本です。
これが仏教でいう「無明(むみょう)」
っていうやつなんじゃない!?
・・・と、ひらめいた時には、わたしちょっとゾクッときましたよね。
痴(ち):わからないのが最大にやっかいだ
三毒の3番目である「痴(ち)」は、
別名「愚痴(ぐち)」ともいわれ、また「無明(むみょう)」のことだともいわれます。
愚痴といっても、いわゆる「飲み屋で会社の愚痴を言う」とかの愚痴とは違うんですよ~。
「愚かでものがわからない」という意味です。
一般的には、
三毒の3番目の痴(ち)とは、
おろかさ、
物事の道理・真理をわかっていないこと
などといわれているようですが、
私はそれだとなんかよくわからないなー、と感じていました。
「おろかさ」ってどゆこと?? みたいな。
でも、この
無意識下にあって自覚できず、
わからない
ひらたくいえば
自分で自分のことがわからない
そういう「わからなさ」のことを
痴 = 愚痴 = 無明
というんだ、ということであれば「ああ〜!」と腑に落ちます。
一説には、三毒(貪・とん、瞋・じん、痴・ち)の中でも、この「痴」こそが、一番の煩悩の元にあるものだといわれているようです。
つまり、いちばんの親玉!ということであり、煩悩のラスボス!みたいなもんでしょうかね。
なるほど、その通りだと思います。
三毒の1つめ2つめである貪りも怒りも、「無意識下のわからないシステム」が回って生み出される煩悩です。
すべての煩悩と苦しみの繰り返しは、「無意識下にあって自覚できず、わからない」ところから生じているのですから。
わからないかぎり一生苦しむんです。
残念ながら、これはほんとにどうにもならないですね。
いっぺん絶望するしかないくらいどうにもならないと、私は感じます。
無明を超えるためには「気づく」こと
無意識(潜在意識)領域という暗さ・冥(くら)さ・明かりの無さ。
それはつまり
自分という人間、存在そのものの「わからなさ」であり、心の暗黒領域だといえるでしょう。
それほど私たちは、自分のことがわからないということです。
だからこそ、この無明を超えるための修行というのは、まず徹底的に「気づく」ということにあるのです。
気づかない、自覚できない、わからない、自分の心と身体と行動あらゆるものに、気づきを向ける、自覚していく、わかっていく。
無意識という暗黒の領域に、少しずつ光を当てて、日の目を当てて。
「おお、これかー!こんなのがあったのかー!こうなっていたのかー!」と気づいていくこと。
微々たる歩みかもしれませんが、それは一つ一つ自分の中の暗黒を減らしていく歩みです。
その暗黒が減るたびに、確実に意識の上では軽く、楽になり、苦しみは減っていきます。
暗黒領域にある荷物に光が当たっていったなら、おのずと「煩悩の嵐」のようなものも静まっていきます。
「断とう!やめよう!」と力まなくても、やる必要性がないからやらなくなるということです。
かわりに、穏やかさや、ゆとりや、喜びや、幸せを実感するようになるでしょう。
そしておそらく。
ここから先は私が自分で経験したわけではないので、実感レベルではないのですが
最終的には、「私」というものはなかった! という気づきに至るのではないでしょうか。
いわゆる、梵我一如(ぼんがいちにょ)とかノンデュアリティとかいわれるところ。
究極的には、そのことをわからずに「私」や「他人」や「世界」なんてものがあると思っている、というそのことが「無明」というものの本質なのかもしれません。
まとめ
・煩悩をどんなに「断とう!捨てよう!なくそう!」としてもなくなるものではない。
・煩悩の奥には「無意識領域の暗黒」があり、悩み苦しみはここから生じている。
つまり「自分で自分のことがわからないこと」。これが煩悩のいちばん根っこである「痴」すなわち無明(むみょう)というもの。
・苦しみを脱して楽になるためには、この無意識の暗黒に光を当てて、気づいていくこと。
まさにこの「無意識領域の暗黒」にご一緒に踏み込み、光を当てて「これかー!」とやるのが、ビリーフリセットというメソッドなのです。
いわば無明へのチャレンジであり、「無明の切り崩し」とでもいいましょうか。
だからビリーフリセットは「悩み・苦しみ、もつれ・葛藤消滅の根本アプローチ」であり、「自分という人間を動かすシステムの解き明かし」なのです。
結局、私がやってるのってそれなんだなーと、書いていてあらためて思いました。
というわけで、3回にわたって、なぜか高野山を歩いていたらインスピレーションが降りてきた「煩悩と心の三毒」について。私流の解釈で考えてみました。
シリーズはこれで終わりにします。
長々とお読みいただき、ありがとうございます。