怒ってないフリはできるかも。でも怒ってるでしょ
仏教において心の三毒といわれるものの1番目が
貪(とん)= むさぼり
でした。
前回の記事はこちら
そして2番目が
瞋(じん)= いかり
たしかにねえ、それはいかんよねえ・・・と思うくらいわかりやすいですね。
確かに怒りはやっかいな感情です。
自分も苦しいけど、人も苦しくさせます。
物もこわれるし、物じゃない大切なものもこわれたりします。
できるものなら怒るのはやめたい。
怒らないようにしよう。
もう怒るのはやめる。
って、何人の人が思ったり決意したり、誓ったり念じたりしてきたことでしょう。
でもねえ。。。
いくら表面的には
「怒らないようにしよう。せめて顔や態度や言葉には出さないようにしよう。怒らない、怒らない。気にしない、気にしない・・」
ってガマンしてがんばってみても、
どーうしてもフツフツと湧いてきちゃう腹の中のコレをどうしてくれよう・・・・うむむ〜。
という経験はどなたもあることでしょう。
残念ながら「怒らないように」という努力は本質的な対策ではありません。
怒ってないフリはできるかもしれない。
でも心の中では怒ってるでしょ。
だって湧いてきちゃうんだもん。
実際、ムカッ!とかカチン!ヌヲ〜!とか、こみあげちゃうんだもん。
それは心の「反応」ですから、しよう/やめよう といった意思でコントロールできるものではないのです。
じゃあどうすればいいのか。
ビリーフリセット的に考えるとこうなります。
怒りという「反応」が起こる構造を知り、その「元」を探求することです。
怒りは、いわば火や煙のようなものです。
燃える元の物質がなければ火も煙もたちません。
じゃあ何に火がついているのかというと、私たちの心の中に埋まった「地雷」です。
怒りを生み出す心の「地雷」
怒りとは、できごとや人の態度・言葉といった外側の事象が
自分の心の奥の思考・観念という「地雷」に触れた時に生じます。
地雷とは、自分の中にある考え・観念・定義・常識や、期待・願望・思い込み、です。
これらを、ビリーフと言います。
ビリーフとは「信じ込んだ考え」のことです。
あるいは過去の痛い感情というのもあります。
これはビリーフとはまた違った性質ですが、明らかに地雷です。
つまり
できごとや他人という現実が
五感を通して自分の心にインプットされる
↓
内側にすでにセットされている
ビリーフに接触する
↓
セットされたビリーフと現実が
違う!と判断する
↓
「自分の中にある考え
観念・定義・常識と違う!」
「自分の期待や願望どおりではない!!」
と思われた時に出る拒否反応・アウトプットが「怒り」であると言えます。
この地雷をちゃんとみつけて対処しない限り、いつか誰かがその地雷を踏みますし、
虫の居所が悪ければ、風が吹いたって箸が転んだって、地雷は爆発するんです(笑)。
その「地雷」、つまりビリーフをもう少し詳しくいいますと
「○○は〜〜であるべき」
「〜〜べきではない」
「これは善いこと、これはいけないこと」
といった自分の判断軸や、従っているルール。
「こうであってほしい」
「こうして当然でしょう」
といった期待や願望、要求。
「○○とはこういうものなんだ」
「どうせ○○はこうなんだから」
といった、思い込み・決めつけ。
それから、感じたくない過去の痛い感情 というのもやっかいなものです。
感じたくないからこそ奥底にしまいこんで、
誰一人として絶対に近づかせない触れさせない「第一級警戒区域」のようになっている感情です。
何かがそこに触れそうになると「感じたくないあの感情をまた感じさせられる!!」と
ものすごい勢いで警報ブザーが鳴って、一斉射撃!
まさに、地雷に触れるとはそういうことです。
怒りが生まれる元には、こういう心の構造があります。
怒らなくなるためには、地雷撤去が必須
そういうわけで、「怒らないように」という意思のコントロールは、本質的な対策ではない
ということがおわかりいただけたでしょうか。
怒りの奥に地雷あり。
地雷がたくさん埋まってる人ほど、触れてはならない掟やタブーが多く、いつもピリピリしています。
アレもコレもソレも、アイツにもコイツにもソイツも腹がたつ・・・ということにもなります。
ということは、
怒りから離れるためには
地雷撤去をすればいい
ということです。
地雷撤去とは、
自分の心の中で無意識に発動している考え・観念・定義・常識、期待・願望などのビリーフ(信じ込み)、
過去の痛い感情などを、明るみに出して直視することです。
「これかー!こんなものがあったのか!」
と気づいて地上に掘り出せば、それはもう地雷ではなくなります。
あとは意識的に対処できるので、危険度は下がります。
対処できないのは、あくまでもそれが地面の中に知らずに埋まっている「地雷」だから。
で、ここがやっかいなところなのですが、地雷ですから、地面の上からはわからない、ということなのです。
自分ではわからないところに原因がある
実はこれらは、無意識(別名、潜在意識)という「自分ではわからない領域」に存在するから、簡単にわからないんです。
ちょっとぐらい考えたってわからない。自覚がない。
自分で気づけないのです。
気づけないから、理由もわからず、いつも同じパターンで同じ感情を味わって、同じことで悩んだり苦しんだりすることになります。
断っても、離れても、抑えても、なくそうとしても・・・・結局、またか!またか!の繰り返し。
「煩悩は尽きることがない!」と皆が絶望的になるのもわかります。
そう、まさにここです!
自分ではわからないこと。
これが、煩悩に取り組む上での最大の障害であると言えるでしょう。
「貪るのはやめよう!」と思ったって、
わからない領域(無意識)に「足りない」という世界観の前提がドカンと存在していたら、貪ることはやめられません。
「怒るのはやめよう!」と思ったって
わからない領域(無意識)に膨大なビリーフ(信じ込み)と過去の感情の数々が積み上がっていたら、怒りはやむことがありません。
自分ではわからない。
やっかいです。
この無意識・わからない領域は、いわば暗黒の領域です。
光があたらない。真っ暗。明かりが無い。
これを無明(むみょう)といいます。
でました!三毒の3番目。
痴(ち):おろかさ
この3番目の痴(ち)とは別名
無明(むみょう)ともいわれるもの。
その意味を「おろかさ」といわれても、
「道理・真理をわかってないこと」といわれても、
なんとなくピンとこないところがありますが
実はこの無明とは
「無意識だから自分ではわからないこと」
だととらえると、とっても腑に落ちます!
というわけで、次回はこの煩悩・三毒の3番目
痴(ち)についてもう少し深めてみたいと思います。
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