なんとなく年末気分だからでしょうか、Macにたまった書類フォルダを整理していたら、過去のブログ下書きが何本か出てきました。
書いていたけど未公開のものもけっこうあって。
その中でも、ちょうど5年前、2010年のまさに今日、書いていたものを発見しました。
今読んでも「なるほど、あ〜〜。」となかなか感慨深いものもあり、これも何かのよびかけと受け取って、5年後の今日、こちらに公開してみようと思います。
私がこれまでもよく書いている「転換期」。
まさにそこにどっぷり絶賛ハマり中の自分の手記のようなものです。
いわゆる「燃え尽き」ってどういう状態なのか。
そこでどうあがき、何を考え、どう抜けたのか。
関係ない人には重くてワケわからないかもしれませんが、今まさにその渦中にあるという方には、体験談として参考になるかもしれません。
ではどうぞ〜。
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2010年。
今年はなんだかとても長くて深—い1年だった。
ある意味表面的には静か。
それほど大きな動きはなかったように見えるけど、自分の内面ではものすごい地殻変動が起きていた。
彷徨ったし、あっちこっちぶつかったし、苦しんだ。
そして年の後半に、ある突破(ブレイクスルー)を迎えて新しい地平が見えた・・・そんな年。
何に苦しんだのかっていうと、それは音楽。
音楽と自分の関係。
それはもう数年前から始まっていて
それまでやっていた音楽のやり方が、もうできなくなってしまったのだ。
外的な条件としてではなく
内的な必然として。
もうできない、もうやりたくない、
もう音楽なんて面白くもない・・・。
「砂を噛むような」という比喩があるけれども、
例えば、食べ物に何の味も食感も感じられなくなったとしたら・・
どんな物も口に入れたとたんにモソモソと砂の味・・・
音楽を聴いても、弾いても、作っても、そんな感覚を味わっていたのだ。
圧倒的な虚しさ、無意味感。一言で言ったら「だから何?」て感じ。
そして、なぜそんなことになってしまったのかわからない戸惑い。
そんなことになってしまった自分に対する、恥、罪悪感。
これからどうしていったらいいのかという不安というよりも、それ以前に「どうしたい」とかのヴィジョンがまるで見えてこない無方向感。
いわゆる「燃え尽き」「デッドゾーン」という状態。
年齢から言って「ミッドライフ・クライシス」ということもできるし、「魂の暗夜」という言い方もある。それが今年いよいよ極まった感じだった。
でも一方で、私は自分がそういう段階に来ていることを自覚していた。
それは、私の本質が本当に求める人生を、この先やるためにこそやってきた「あくまでも通過しつつある段階」であるということも。
そして私は、そんな自分の心の中をあれこれ探索するのが好きだった。
これって何なの?
こういうものの奥には何があるの?
人の成長の段階って?
人間の心ってこういう風なカラクリがあるのか、
そらえらいこっちゃなあ(関西の人じゃないけどwこの語感がぴったり)。
ある意味、もともと好きだったことにじっくり向き合うことができたわけだ。
そんなせいもあって、歯止めが効かなくなるほど落ちこんでいったりせずに済み、最低限必要とされるお仕事は淡々とやってこられたのかもしれない。
ただ、内心にそんなに虚しさいっぱいの人間が無理して音楽やって、現場では周りの人に何かしら伝わってたと思うし、釈然としない思いにさせてしまったこともあっただろうと思うと申し訳ないとしか言いようがありません。
でも自分はこれが精一杯だったんです。
で、自分は何に限界を感じていたのか、それが今になってわかる。
それは「闘うこと」だった。
小さい頃から音楽は私にとって生きるために必須のものだった。
「私から音楽を取ったらカスみたいなもんだ。」って思ってた。
「何もない、ただの自分」のことをカスのようなダメ人間だとしか思えない、それほど、自分のことを低く思っていたということだ。
なぜとか理屈ではなく、生まれ育つ中で、人間誰しも実はそういう根源的な自己不信(欠損感・無価値観・罪悪感)を刻んで育っていくもの・・・と心理学では言われている。
私は自分のことを見る限りその通りだと思う。
そういうわけで「音楽の力を磨くことで、ダメな自分(と思い込んでいた)を克服し、少しでも人並みになり、認めてもらってみんなの仲間に入れてもらうんだ。」いう心の深いところにある動機から、音楽に執着していった。
それは痛みと恐怖から生まれた「痛い動機」。
もちろん無自覚だ。
一方、現代の世界では「できること、すごいこと、希少性、独自性」に高価値を置かれているので、音楽の世界で仕事をしていくには、どれだけ「できるか、すごいか」を認めてもらわなくちゃいけないことになっている。
自然と皆、自分の「できること、すごいこと、希少性、独自性」を磨き、「すごいだろう合戦」のリングに上がっていくことになる。
上記のような個人的な「痛い動機」を核として音楽に執着し、業界的な価値観を自然に呑み込んでいた私ももちろん、その「すごいだろう合戦」のリングに上がって闘っていた。
あまり強くなかったけど、それでも自分の独自性なんてものを精一杯追求して、自分もそこそこは「できる人」のつもりで頑張っていたのだ。
創造性とか、表現欲求とか・・・
芸術を語るきれいな言葉はたくさんあるけど。
そして自分もそういうところで生きているつもりだったりしたけど。
いや、今になってみるとそんなもんじゃなかった。
すごいねって認めてほしかっただけっていうのがほとんどだったなあと思う。
私の内に始まった「燃え尽き」は、そういう自分に対して、深い自分の本質が「もう、それはちょっと違うんじゃないか?」って言い出したって事なんだと思う。
でも、リングの上しか知らないそれまでの自分は「えっ?何、どういうこと?」ってなかなか理解できないのね。
だから苦しむことになる。
そうやって、とことん音楽のことが嫌になって
見たくも聴きたくもなくなって。
ジタバタ、ジタバタしながら。
やむを得ない必然性から自己探求に向かいながら、だんだんと、音楽のない「ただの人間の私」にもOKを出せるようになって、何もない、「今ここ」に生きているだけの自分自身と共にいることができるようになって、そうなってやっと気づいた。
私、「すごいだろう合戦」のリング で闘うことにうんざりしてたんだな、ってことに。
それでもやっぱり
まだそのリングの中に自分はいたんだな、
ってことに。
もう闘いはやだ。
もう闘わない。
私、リング降りるわ。
そう決めた。
もちろん、リングに上がって勝負をかけている人達を否定するつもりはない。
そこで日々技を磨き、力を蓄え、武器を揃えて、勝ち上がっていくことに意義を感じている人がいたっていい。
そこで闘えるのは立派なことだ。
戦士としての人生が最適だという人もいるかもしれない。
でも私には向かないわ。
私は本質的に「平和」を指向する人間だったのだ。
そして、そんなにすごくも独自でもない。
「努力を放棄した。負けた。」
って言われてもいいかな。
ええ、負けました。
私はリングを降りて、
少し離れた心地のよい草原で木陰にシートを広げて座り
闘ってケガして倒れた人の介抱なんかして
「ゆっくり休んでいきなよー。」
とか言ってるような人になりたいと思う。
勝ち上がるためじゃなくて、そういうことのために
自分の持っている音楽を、使えるなら使いたい。
べつに音楽じゃなくたってかまわないしね。
そんな新しいヴィジョンが見えてきた今
すごくスッキリしている。
元気になって、また別の形で音楽の楽しさを感じられるようになりつつある。
色々巡り巡る中で、見守ってくれた方々、
力を貸してくれた方々、ありがとう!
そして、よくがんばった自分!
2010年よ、さようなら。
今まで私を生かしてくれた、闘いのリングよ、
さようなら。
(2010年12月28日)
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はい、ここからは2015年の私が補足します。
実は2010年の年末、この時すでに翌年春からの聖徳大学・音楽療法学科への社会人編入が決まっています。
数年間、こんなかんじで自己探求しながら、やっと見えた次の道だったんですよね。
そして2年間大学生をやって、音楽療法士の資格をとって。
資格とったら、とりあえずそれをほったらかして、もっとディープな心理セラピーの道へつっこんで、ビリーフ理論という自分にピッタリくるフィールドをみつけて今に至る、と。
で、一周りした感とともに、また来年音楽をはじめる気になっている、←今ココ。
というわけで、なんとかなるもんです。
自分に正直になっていれば、絶対自分はいいように自分の人生回してくれる、って私は思います。
それは、浅いとこでチャプチャプ、ザワザワしている自分ではなく
深いとこの自分です。
自分では気付かないようなところも含めて。
別名「魂」といってもいい。
そういう深く大きなところの自分は、
すべて自分がいちばんいいように、人生運ぼうとしてくれます。
ちゃんとサインを出してくれます。
何か自分の本望と違うことをしていたら
「おい違うよ〜」と。
壁や行き詰まりや苦難という出来事を通して
全力でストップかけてくれます。
自分の望むことを教えてくれるために
「おいこれじゃないの〜?」と。
直感やインスピレーションや偶然と出会いとして
ちゃんとサインを出してくれます。
自分に正直でいる覚悟さえすれば
それはちゃんと聞こえて、キャッチすることができて
それに従って流れに乗ることができます。
結局なんとかなります。
それには「自分に正直でいる」という
いちばん怖い覚悟が必要なんですけどね。
でも、そんな覚悟ができなかったとしても
それはそれで、その道で
たとえ苦しんでも、苦しまなくても
浅いところの自分の
恐れや迷いに翻弄されながらでも
どっちにしろ自分という命・魂は
底流にあってあいかわらず自分をちゃんと運んでくれる。
あなたが気づこうと気づくまいと。
あなたがこの年末、
もしも厚い壁の前に立ち、
気の晴れないまま年越しを迎えたとしても
あなたの気付かないところで
あなたの知らないもっと大きなあなた自身が、
ちゃんと良い方へあなたを運ぼうとしているから
大丈夫です。