前回まで3回にわたって、「魂が喜ぶ仕事・本当にやりたい仕事」へとたどり着く道のりを考えてみました。
これまでの記事
1 荷物とノイズを片付けるステージ
さて、ここまで眺めてみて、1、2、3、どのステージにおいても、結局いちばん問題になるのはこれだよなー、と思ったので、続き/まとめという形よりも、別記事として立てることにしました。
「恐怖」が必ず足をひっぱる
「感性を信じましょう。
決断と行動が大事です!」
などといっても、「よっしゃ、では!」と、すぐにそうできる人ばかりではありません。
なぜでしょうか。
「でも、だって、そんなこと言っても、なかなか・・・」という躊躇
「難しい、無理、できない・・・」という尻込み
「ああなったら、こうなったらどうする・・・」という不安
「どうせこうなる、結局こうなる・・・」という過去へのとらわれと未来への悲観
などが、すかさず現れるからです。
つまり結局のところ「恐怖」に由来する感情の数々です。
どの局面においても、これらがモクモクと雲のように湧いてきて私たちを惑わせ、足を止めさせ、諦めさせる方へと引っぱります。
これは人の精神構造から言って、そういうものなのです。
「私だけが無理、難しい」のではなく、誰もが大なり小なりこういう感情を感じざるを得ない心の背景というものがあります。
「無力」は子供の自己認識
これらの恐怖にまつわる感情の奥には、実は「自分は無力で大したことのない存在」という圧倒的にちっぽけな自己認識が横たわっています。
それを「自己不信」と言ってもいいし、「自己否定感」と呼んでもいいでしょう。
単に「思い込み」というにはあまりに深いレベルの、言葉を超えた「存在感覚」のようなもの。
心を静かにして、自分の深くに耳を傾けてみると、こんな感覚があることに気がつく方もいるかもしれません。
自分は無力で、足りなくて
たいして価値がなくて
ほっとけば愛されなくなって
孤独になって、生きていけなくなる
言葉にはなっていなくても、漠然としたそういう不安感のようなもの・・・・これは何なんでしょうか。
圧倒的な無力感。
自分が小さいかんじ。
そして、世界や他人や周りという強大な存在に翻弄されてしまいそうなかんじ。
実はこれは「子供の自己認識」であり、「子供時代の恐怖」ではないかと私は考えています。
動物と違って特に人間の子供は、生まれてから長期にわたって本当に無力で、何もできません。
周りの人に世話してもらわなければ、生存が不可能です。
孤独になったら本当に死んでしまいます。
だからこそ、周りの環境や、周りの人たちの存在は強大なものとなります。
世界というものは圧倒的な力で自分を取り囲んでいて、
周りの人たちは強大な力があって、
無力な自分の生死は周りの世界と周りの人たちに握られている。
こんな強大な世界で、こんな無力な自分が生きていくのは無理。
だから、周りの人に受け入れられ、愛されなければ、死んでしまう。
人は皆、無力な子供として人生を始めざるを得ないからこそ、このような感覚を原初に持つのではないかと、私は考えています。
そして、それは言葉以前の潜在意識レベルの感覚なので、その後も潜在意識下(無意識下)に残るのです。
その原初的な存在認識を元にして、その後の成長過程での経験によってさまざまなその人なりのビリーフ(生き残りのための行動指針)というものが積み重なってきます。
こうして、その人ならではのビリーフ・システムができあがっていきます。
大人になっても生き続ける「無力・恐怖・依存」
実際に、セッションの現場で色々な方の心のカラクリをひもといていくと、結局行き着くのはそこなんだと、私はだんだん実感しています。
自信がない、進めない
決められない
人間関係うまくいかない
やりたいことがわからない
など、あらゆる問題の奥に、この子供時代の「無力・恐怖・依存」の根が隠れていることが多いです。
つまり、その後の現れ方は人それぞれでも、この原初の無力感と恐怖と周りへの依存というのは大きくなっても、大人になっても、姿形を変えて「悩みや壁」の原因としていつも存在することになります。
だからいつも、ああなったら大変とか、嫌われたらおしまいとか・・・
場面を変えて、相手を変えて、あいかわらず同じ恐怖と諦めがつきまとうことになるのです。
一方で、誰か他人に対しては
「ああしてほしい」
「こうであってほしい」とか
「〇〇してくれなきゃ困る」とか
「〇〇されて傷ついた」とか
いろいろと「してくれないと自分がハッピーになれない」という状態を作りだすことになります。
「自分が無力」という認識ゆえの、他への依存です。
つまり、ここをちゃんと掘り出して再構築しないと、いつまでたっても、自分は無力だと思い込んだまま、周りの顔色ばかり見て、
我慢ばかりして消耗したり、文句ばかり言って絶望したりする人生になりかねないということになります。
多くの場合、この原初的な無力と恐怖の感覚は、向き合って自覚しない限り、根本的に乗り越えることはできません。
だからこそ大人になって、ある時機、あるタイミングが来て
「このままの人生じゃ嫌だ!」
「もっと自分の人生というものがあるはずだ!」
「もっと幸せを感じてもいいはずじゃないか!」
と、いてもたってもいられなくなったら
それが脱皮の時。
ちゃんと自分に向き合うべき時です。
無意識下に残り続けた「子供の自己認識」という古い皮。
いわば、小さくなったお洋服のような。
実際、それじゃもう窮屈で生きづらくてたまらなくなっているからこそ、大人になった今、その古い皮に気づいて脱いで、羽を広げて飛ぶ時です。
そう望む自分の心の声が聞こえる時が、来るときは来るでしょう。
だってもう大人なんだから
少し問い直してみましょう。
・自分は無力
→ 今も本当にそうなんでしょうか?
たしかに、子供のころはそうでした。
なんにも知らなかったし、なんにもできなかった。
だけど今の自分は
普通に学校出て働いて生活してるくらいだから、それだけのことができる体力も、知力も、適応力もあるよね?
読み書きもできるし、話もできるし、ネットも使えるよね?
何かをやれば、そりゃあ何かが起こります。
でもその時に、考える力も、判断する力も、行動する力も、あるよね?
いや「自信がないから」っていうけど・・・普通に知能があれば、その力、普通にあるでしょう?
使うのが怖いだけで。
ちゃんと自覚的に使ったことがないだけで。
あるいは使って失敗するのが怖いだけで。
なぜ、怖いのか。
それが「子供の自己認識」ゆえ。
「自分にはムリ!自分にそんな力はない!」っていう。
「こんな怖い世界で、自分は生きていけない!」っていう。
そう思い込んでいることを「自信がない」といいます。
でも、現実は本当にそうなのでしょうか。
よく考えてみよう。
失敗したら本当に終わりなんでしょうか?
死ぬしかないんでしょうか?
今日までこうして生きてきて、これだけのことができる人が、なんとかできないはずなくない?
だって、もう大人なんだから。
もう無力じゃないでしょう。
そこ、考え直しましょう。
・嫌われたら生きていけない
→ 今も本当にそうなんでしょうか?
たしかに、子供のころはそうでした。
お父さんお母さんに嫌われたら、このお家で生きていけなかった。
何かもの申すような言葉も論理も方法も持たなかったから、黙って従うしかなかった。
だけど今の自分は
言葉が使える、話ができる、考えられる。
相手の話も受け止められる、コミュニケーションできるよね?
気持ちや考えを伝える手段だって、考えることができるよね?
1度で伝わらなくたって、2度目で工夫することもできるよね?
どんな気持ちや情熱に人は動かされるものなのかも、だいたいわかっているよね?
そして今の自分は
「愛される・大事にされる」だけの存在じゃなくて、他の誰かを「愛したり・大事にしたり」だってできるはずだよね?
そんなお互いの気持ちが通じた時に何が動くのかも、なんとなく想像がつくよね?
自分も怖いかもしれないけど、相手だって怖いし、向こうにも色々と事情だってあるんだってこと、考えられるよね?
そして今の自分は
人の感じ方はみんな違うことをわかっているよね?
賛成する人反対する人、好感持つ人持たない人、色々いるのは当たり前だって知ってるよね?
そして今の自分は
今いるその場所だけが世界じゃないって、わかるよね?
世界はもっと広くて、もっといろんな人がいて、その人たちと出会っていくことができて、
その人たちと新しいつながりを作ることだってできること、
よく考えたらありだよね?
どんな場所に行っても、自分がそこで生きれば新しい生活が始まるってこと、想像することできるよね?
だってもう大人なんだから。
お父さんとお母さんだけの小さい世界の中で、無力になすがまま、なされるがままの子供の自分じゃないんだから。
たとえお父さんにお母さんに嫌われたって
今の自分は
「私は私」として生きる力があるのだから。
考えられる。言葉もできる。
身体も動く。行動できる。
なんとかできないはずないじゃない?
ほんと、私たちはもう無力じゃないんです。
だってもう大人なんだから。
そこ、考え直しましょう。
自分の「力」を取り戻す
ほんとに思うんです。
「力(ちから)」ってだいじ。
自分の「力」をちゃんと自分に取り戻すこと。
すでに持っている自分の「力」をちゃんと受け止めること。
その「力」をちゃんと行使すること。
まずは、自分のために。
やがて、人のために。
ちゃんと自分の力を使えることと、幸せであることは、けっこうつながっています。
力とは何も、たくましく勇ましくガンガンいくだけのものじゃありません。
やさしさも力。
受け止めるのも力。
繊細さも力。
誰もが、それぞれの力を持っています。
そして、その力を生かす方へと、感じて、考えて、決めて、行動するのも力。
誰かと比べてどう、じゃなくて、自分なりの力というのが、それぞれあるんだから。
それをちゃんと自覚して、ちゃんと使えばいいのです。
無力で恐怖に怯える「子供の自己認識」から脱皮して、自分の力をちゃんと知って、その力を行使できる「大人の自己認識」へ。
そこに「自分の人生を生きる」という喜びがあり、その先に「魂が喜ぶ仕事」というのがあるのでしょう。
内なる脱皮と転換を計りながら
一つ一つの内なる壁を乗り越えながら
自分の力を取り戻しながら
それをしっかりと行使しながら
その道を、進んでいきたいですね。