ほんとうにやりたい仕事。
魂が喜ぶ仕事。
それを、みつけたい。
わかりたい。それをやりたい・・・。
でも、それはすぐにはわからないことが多いです。
それを見つけるための道のりを考えるシリーズ。
前回の記事
さて、続きです。
「感性の声」を聞く
思考の荷物やノイズが少し軽くなり、「思考と自分との間にスペースをとる」ということができるようになると、
少し、自分の感性の声が聞こえてくるようになります。
感性の声を聞くとは、自分が感じていることをちゃんと自覚して認めることです。
好きだ、嫌いだ
うれしい、悲しい
やりたい、やりたくない
ピンとくる、ピンとこない
これだ!と思う、なんか違うと思う
などなど。
それは理屈じゃなくて、心深くからわき上がってくるような「感覚」です。
そこには、他人から見てどうかといった「正解」はありません。
自分が「そんな気がする」「そんな感じがする」
今、自分がそう感じている、そのことが真実。
そういう、絶対的主観の領域です。
これを、ちゃんと感じられるようになることが、とっても大事です。
喜びと違和感をちゃんと感じる
「魂が喜ぶ仕事」をみつける道のりで、大事な指標になってくるのは、喜びと違和感だと、私は思っています。
まず、「喜び」をちゃんとわかるようになる必要があります。
自分にとっての喜びとは何か。
好き、うれしい、ワクワクする、イキイキする、ほっとする、
どんどん元気がでてくる・・・・・
最初は小さなことでもいいのです。
こういった感覚をたくさん味わえるようになっていった先に、「これが本当にやりたかったことだった!」という「大きな喜び」の発見に至るのです。
逆にいうと、そういう「小さな喜び」の感覚がよくわからないうちから、「魂が喜ぶ仕事」などという「大きな喜び」はわからないのではないかなー、と私は思いますね。
だから、小さなことからちゃんと「好き、うれしい、ワクワクする、イキイキ」をつかまえることです。
そして、「喜び」がわかるようになると、今まで感じなかった「違和感」というのも、ハッキリ浮かび上がってくるでしょう。
「なんか違う」
「どうもこれじゃないような気がする」
「ほんとはそうじゃないんじゃないかなあ。」
そんなかんじ。
これを感じるのは、実はけっこう勇気がいります。
それ感じちゃったら、「これまで通り」ではいられなくなるから。
何かを変えなくちゃならなくなるから。
人は基本的に、変わること、変えることに怖れを感じるものだからです。
だから
「そう感じる自分が違うんじゃないか」
「いや、気のせいだ」
「まあまあ、そう言わずに
もう少しがんばって」
とか、色々言い出すわけですが。
でもね。
感じちゃったものは仕方ない。
だってほんとにそう感じてるんだから。
そこを認めるかどうか。
これを感じ始めると、なんだか落ち着かない、ムズムズした居心地の悪さを感じるはずです。
モヤモヤとした日々が続くかもしれません。
でも、それで大丈夫です。
喜びをちゃんと感じることができるようになったからこそ、違和感もちゃんと感じとることができているのです。
「感性」のアンテナがちゃんと機能しだしている証拠です。
そのムズムズも、モヤモヤも、ちゃんと味わって大丈夫です。
そうやって味わっていると、いつか耐えきれなくなって「もういいかげん、なんとかしたい!」と動きたくなってくるでしょう。
なんとかする方法を、なんとしてでも考えるようになるでしょう。
それを本当にやろうという気力が、わいてくるようになるでしょう。
そういうエネルギーが、「魂が喜ぶ仕事」へと自らを運んでいくのです。
それが出てこないうちは、いつまでもそのままです。
けっこうね、耐えきれないくらいまでならないと、人間て変わろうとか動こうとか、できなかったりするもんですねー。
耐えきれなくなったら、人生変えるチャンスですね。
感じたことを信じる
さて、喜びも違和感も感じることができるようになったら次に大切なことは、
自分が感じたことを信じること。
感性で感じたら、それを信じる。
「私がそう感じたんだから、それでいいんだ。」と。
世間や誰かの基準の正しさじゃなくて、「私が感じたこと」をいちばんの正しさだと信じる。
信じるとは、選択することでもあります。
「他人の声」じゃなくて「自分の声」を選択する。
しかしここで、思考の声がうるさく言ってくるはず。
「そうじゃないだろ、こうすべきだろ」
「そんなふうに思うのは、おまえだけだぞ」
「そんなことしたら・・・・になっちゃう」
「客観的に見たら・・・」
「普通こういう場合は・・・・」
みんなからすれば・・・」
前例、常識、権威、多数意見、固定観念、人の目、人の思惑、顔色・・・・
自分以外の方に、正しさや真実があると思えてならない。
それを基準に考えなきゃいけないような気がしてならない。
そして、こうなったら、ああなったらどうしよう・・・という恐怖のシナリオのリアリティの方がどんどん高まっていく。
それが今までのクセであり、前回書いた「思考の荷物やノイズ」に捕われている状態だったら、
ここでアッサリ負けます。折れます。
「やっぱり私が違うんだ。」と取り下げます。
そして、自分はあいかわらず無力で無価値で大したことがない存在・・・
どうせ自分なんてこの程度・・・
という自己否定に沈んで、やっぱり今まで通りを続けていくことになります。
だから、自信がないままです。
自分の感性を信じてないんだから。
自分の声より他人の声を信じているんだから。
ちょっと残念ですね。
だからこそ、繰り返しますが、「思考の荷物やノイズ」外しが大事になるのです。
そりゃあ、人間だからそういうものは現れます。
でも、思考の荷物やノイズが現れてもそれに呑まれず、ちゃんと距離をとって眺められる「もう一人の自分」を育てておく、ということが必要なのです。
(思考との距離をとるということについては、また機会を改めて書きたいと思います)
思考との距離をとれる自分を育みつつ、感性の声をちゃんと感じ、それを信じていく。
一日にして成ることではありません。
少しずつ、練習です。
本当の「自信」とは
「自信」ということについて、私は思うのです。
よく、なにかが「できそう」だと思うと「自信がある」と言い
なにかが「できなそう」だと思うと「自信がない」と言ったりします。
あるいは、
誰かにほめられたら「自信が持てましたー\(^o^)/ 」とか
けなされたら「自信なくなった_| ̄|○ 」とか言ったりします。
もちろんそれも一つの解釈だけど、よく考えたら、それだと「できる・できない」「ほめられる・ほめられない」で
アップダウンすることになりますよね。
それって本当に自分を信じてることになるのかな?って思うんです。
揺るぎない「自信」というのは、何かができることや、誰かからほめられることではなく、
自分で自分の感性を信じることができることをいうのだと私は思っています。
できても、できなくても。
ほめられても、ほめられなくても。
「やりたい」と思った自分を信じること。
「やってみよう」と思った自分にOK出すこと。
うまくいかなかったら「それじゃ、次どうする」と思える自分を信じること。
自分で自分の感性を信じらるからこそ、誰かに何か言われたり、思われたりしても
自分が丸ごと揺らいだり、崩れたりするものではないのです。
「私は自分の感じたことを信じる。」
この「自信」があればこそ、次の「決断」というステージへと進むことができます。
次回へ続く