自分はどういう人なのか。
もっと言えば
自分はどういう「生き物」なのか。
自分の性質、志向、生態。
これが正しくわかって
そのまま受け入れることが
できたら
あとは、その自分が一番
生きやすい環境に身を置いて
その生き物として
自然な暮らし方をしたら
人生の問題はだいたいの場合
解決するんじゃないか、
とさえ思う。
多くの悩む人、生きづらい人は
その
自分はどういう「生き物」なのか
がよくわかってないか
たぶん、全く見当違いなのだ。
確かに、人間としての姿形は
みんな似たり寄ったりだ。
だから自分もみんなと同じはず
なんて思ってしまうけれど
でも中身は全然違う生物なのだ。
鳥と魚くらい
猿と蟹くらい
兎と亀くらい
一人一人性質が違うのだ。
鳥と魚では、
居心地の良い場所が違う。
蟹がうれしいことと
猿がうれしいことは違う。
兎の快適なペースと
亀の快適なペースは違う。
あたりまえ。
でもどうして
人間になってしまった私たち
そうは思えないんだろう?
自分が誰なのかも
よくわからないまま
本当のところ誰なのかも
わからない他人と比べ合って
落ち込んだり無理したり
全く自分ではないものに
なろうとしてしまう。
しかも人間界においては
親と子が全く違う生き物
であったりするのは
よくある話。
姿形は似ていても
生き物としての中身は
親がカエルで、子供がトンビ
なんてこともある。
親は、自分の子だからカエルだ
と思い込んで
立派なカエルになれ!
とトンビの子供に強いるので
ほんとはつい
空を飛びたくなっちゃうトンビは
飛びたい気持ちを抑えて
立派なカエルになるようがんばるけど
水の中にいるのがどうにも辛くて
泳ぎもジャンプもどうしても
上手くできなくて
やっぱり私は何をやってもダメだ、と
下を向いて生きていく。
カエルの親を喜ばすこともできず、
つい空を飛びたくなっちゃう自分は
何て悪いヤツなんだと
あるはずの翼を隠して生きていく。
生きるって何て辛いんだろう、と
死ぬことばかり考えるようになる。
ちょっと待って!
あなた、本当は誰ですか?
あなたの中身は誰ですか?
そこが大事。
自分がどういう生き物なのか
はっきり認めて受け入れること。
それを自己受容という。
なんだ、トンビだったのか!
やっぱりな。
どうもおかしいと思ったよ
どうりで水の中が辛いと思ったよ!
ジャンプなんか
できなくて当然だよ!
翼、あったじゃないの。
これ、羽ばたいていいの!?
お〜 バタバタやると気持ちいいわ〜
あら、飛べちゃった!
うわ〜、空は広いなあ
ああ〜
思いきり息ができるなあ
この爪で、食べ物掴んでいいのか!
おほー おもしろーい!
今度の獲物はあいつか!
いけるかな、どうかな
ハラハラドキドキ
よっしゃいくぜ!うりゃー!!
決まったっ!!ゲット!
やめらんないな、このスリル。
帰る場所は、山の中、樹の上。
あー、落ち着くわ〜
楽だわ〜
ここで生きていっていいのか。
ここが、自分の
生きる場所だったのか。
高い木の上からふと見下ろすと
自分が育ったあの池が見える。
カエルのお父さんお母さんが
水辺でケロケロ歌ったり
池にとびこんだりしている。
あらー、何だか楽しそうだな。
あんな小さい池の中だけどな。
そうか、カエルだもんな。
カエルはあれが幸せなんだ。
そして、トンビの自分も
こうやって生きてよかったんだ。
トンビだもんな。
トンビはサッと羽ばたいて
池の遥か上をすいーっと巡り
ピーーヒョロロ〜〜〜
と一声鳴きました。
おしまい。
自分が何者だったか
思い出したトンビの物語
でした。(笑)
自己探求
「自分は何者?」
自己受容
「自分はこういう者。」
それがわかったら
その自分に一番合う
自然な環境で、自然な行動で
自分の力をそのままに
ただ日常を生きる。
本当に、ただそれだけ。
それだけができれば
生きるということは
さほど難しいことではない
はずなんだけれど。
そんな気がするし
それを「幸せ」と
いうのではないかと
思うんだけれど。