言葉、信じすぎ!
そうなのよ!
みんな
言葉を真実だと思いすぎ
言葉だけを信じすぎ
言葉だけしか聞かなさすぎ
だから
言葉に振り回されすぎ
言葉にだまされすぎ。
言ったー言わないー
とか
こう言われたー
ああ言われたー
とか
そんな言い方がー
こんな言い方がー
とか
そんなことで
グサグサ傷ついて
ゴチャゴチャ
トラブルになるのも
言葉のことを
そんなにもアッサリ
真実だと思い込むからだよ。
言葉だけが真実じゃないよ。
言葉との距離、
あらためて考えてみよう。
言葉は、葉っぱ一枚
言葉は
「それ」そのものではない。
言葉の奥に膨大にある
見えず聞こえずつかめない
膨大な立体のようなもの、
そっちの方こそ真実。
それはもう
言葉では捉えきれないほど
大きくて、立体で
全部でまるっとそこにあるものだ。
私たちはそれをほんの一部
ピョロッとつまんで
「言葉」にして
「ハイ、これ!」って
差し出しているにすぎない。
それを語る「言葉」
なんていうのは
真実という見えない立体に
ペロッと張り付いた
葉っぱ一枚ほどのものでしかない。
とりあえず今
暫定的に言い表している
小さな「代表」でしかない。
そのことを見抜くのが
ビリーフリセットなのだ。
「張り付いた葉っぱ」を
信じこむのではなく
その奥の真実をたずねる。
その奥の真実を
そのまま受け取る。
それを「あるがまま」
というんだね。
それは「感じる」もの。
感じた時にはじめて
ビリーフはリセットされるのです。
私のやり方
だから、私は
クライアントさんの言葉を聴きながら
言葉という「葉っぱ」の奥の
見えない「樹」の声を聴きにいく。
カウンセリングやコンサルティングなど
言葉を使う対話法は
いかにも「言葉」のやりとりに見える。
特にビリーフリセットのワークは
ビリーフという「言葉」を扱うから
一見、言葉の応酬のようだ。
でもそうではないんです。
「言葉」と「真実」を
同一化しない。
言葉は言葉として受け取りながら
その奥を感じる。
言葉という「葉っぱ一枚」の
その奥の「根」、
地面の下のありようまで
言葉をヒントに探していく。
探している「答え」は
言葉ではない。
言葉では言い尽くされない
感覚、感情、エネルギー
なんです。
そこにこそ答えがある。
ビリーフリセット・ワークとは
そういうことをやっています。
言葉による呪いを解く
ビリーフリセット・ワークは
そうやって
「言葉」と「真実」を引き剥がすから
言葉によって縛られてしまった
「呪い」が解ける。
「呪い」とは
言葉を信じ込んで
自分に入れてしまった時点から
発動するのだ。
現代における最大の呪いは
「お前はそのままではダメなのだ」
というものだ。
本当にそうだと思っている人が
何千万人いることか。
有形無形のそんな言葉を
生まれた時から浴び続け
その「言葉」を真実だと信じ込んで
自分に入れてしまった上に
こんどは自分で自分に
その言葉を浴びせ続ける。
だからみんな
「ダメだー ダメだー」という。
それが呪いということだ。
「これはこうなのだ」
と言葉を貼り付け
「そうなんだな」と信じる。
それを昔の陰陽師は
「呪」(しゅ)と言った。
(しゅ)とは、何も
恐ろしい呪いのことだけを指していない。
あらゆるものに対して
言葉(言霊)をつけることによって
意識に確定させることをいう。
言葉にはそういう力がある。
人間が言葉を使うということは
そういうことを
一瞬一瞬やっているということだ。
ビリーフリセットの行き着くところ
そのことに自覚的になること。
それが
ビリーフリセットに習熟することの
最大の効果だと言える。
言葉が「葉っぱ」であることを
自覚した上で
言葉を使わずには生きられない
人間として
どの言葉を採用して生きるか
自分で決める。
そうしたら
いちいち「言葉」に振り回されない。
言ったー言わないー
とか
こう言われたー
ああ言われたー
とか
そんな言い方がー
こんな言い方がー
とか
そんなことで
グサグサ傷つかなくていい。
一体誰が言うことが本当なの!?
とオタオタしなくていい。
言葉を超えた
その奥の「真実」を
自分の感じるように感じた
それ。
それを信じて生きる。
そこから湧いてくる
「意思」を生きる。
それを自分軸というのか
目覚めというのか
覚醒というのか。
どれでもいいでしょう。
ビリーフリセットの
行き着くところは
そういうところにあるのです。