私たちはどういうわけか
「いけない」ということに
すごく怯えます。
自分が「いけない側」に
なってしまったと思った時
すごく怖くなったり、傷ついたりします。
たとえば
結婚しても子供を産まない、ということ。
ほしくないから産まない場合も
ほしいけど産まれない場合も
あるだろうけど
「お子さんは?」と言われて傷つくなら
それは
「女性は子供を産むのが当然で、
結婚したら子供を産むのが当たり前で、
そんな当たり前ができないのはいけないこと」
と思っているからです。
その「いけない側」に自分がいることを
責められている気がするからです。
出産や子育てに興味がないから
産んでないはずなのだけど
なんか言われて傷つくのだとしたら
それは
「出産や子育てに興味がないのはいけないこと」
「女性はそれを望んで当たり前であるはずなのに」
と思っているからです。
「いや、自分はそうは思ってないけど、
だって世間がそう言って責めるでしょう」
と思うなら
「世間ではそれが当たり前とされているのだ。」
とあなたが思っているからであり
「そんな世間とは違うことをする自分はいけないのだ」と
自分を「いけない側」に置いているからです。
世間や他人に何か言われる以前に
子供を産まない自分が「いけない側」だと
自分で密かに思っているから
そこを突かれた気がして
その自分の「いけない」に触って傷つくんです。
あらゆることがそうなんですが
「傷つく」ならそれは
自分がすでにそのことを
「いけない」と思っているからです。
「いけない」と思っているから
すでにたくさん
自分自身が自分を責めてきました。
そこにはもうすでに
自分で自分につけた傷が
いっぱいついてるんです。
自分の「いけない」に触る時
自分で傷つく。
人の言葉はきっかけにすぎません。
その自分の「いけない」がなければ
別に傷つかないのです。
「子供を産みたい人はいいんじゃないでしょうか。
私は産まないですけど。」以上。
ですみます。
子供のいる人が幸せそうにしていることを
ただ「そういう人だなあ」と見守り
子供のいない自分が幸せに生きることも
ただ「こういう人だから」と楽しめます。
それでもやっぱり
産んでない自分にザワザワ、モヤモヤするなら
そこには
「親の期待に応えていない」という
また別の「いけない」があるかもしれません。
親は「早く孫の顔が見たいわ〜〜」
とか言うかもしれないし
「跡継ぎが・・・」
なんてことも言うのかもしれない。
そうすると
自分が産みたいかどうかとは別に
「親の期待に応えなければいけない」って
ほらまた「いけない」がでるでしょう。
で、それができていない自分を
「いけない側」に置く。
だから後ろめたくなる。
ザワザワする。
自分で自分を責めて傷つく
というわけです。
その自分の「いけない」がなければ
別に傷つかない。
「期待に沿えなくてごめんねー。
残念だけど諦めてねー。」
ですみます。
親の期待通りにすることだけが
親孝行ではないからです。
私自身は子供がいません。
子供を産みたいとも育てたいとも
思わなかったからです。
他に優先してやりたいことがあるので
それは選びませんでした。
でも不思議と昔から
それを「いけない」と思ったことはありません。
だからそれで傷つくことはありません。
私は生きたい人生を生きられています。
確かに昔は親も
「孫がいたらいいわね〜」なんて言ってたけど
残念ながら諦めてもらいました。
だから、私自身は誰かに
「お子さんは?」と言われても
ズキンともドキンともせずに
「あ、いないです〜」とただ言えるんです。
もちろん
お子さんのことで悩む女性の心情っていうのは
本当に一言では語れないほど
深くて繊細なことですから
ここで私が一刀両断できることではありません。
私はいろんなものを
サバサバ手放すのが得意なので
アッサリ言えてしまうことだけど
それってもしかして
珍しい方なのかもしれないから、
みんなに対して
「そういうふうに考えればいいんだよー」
なんて言うつもりもありません。
悩む人は悩むことにも意味がありますからね。
じっくり悩んでてもOK。
でも、もう悩みたくない人
もう傷つきたくない人
がいるならば
ちょっと参考になればいいかなって思います。
その自分の中の「いけない」
外してみたら、どうなりますか?