音楽環境に恵まれたからこそ、背負うもの
クラシックでもポピュラーでも、音楽家の人たちは、小さい頃から音楽的に恵まれた環境だったり、それなりの教育を受けてきた人が多い。
つまり、それをさせてくれる親の力というものが大きいということだ。
レッスンに通わせてもらい、楽器を買ってもらい、楽譜やレコード・CDを買ってもらい、コンサートに行かせてもらい、留学させてもらい、好きな道へ進むことを許してもらい・・・
たぶん自分がここまで来るためにしてもらったことを挙げれば数限りない、という人もいるだろう。
中には、そのような環境的・財的サポートのみならず、親自身が我が子に音楽の道を進ませることに夢や期待を抱いて、いわば二人三脚のように苦楽を共にしてここまで来た、というタイプの人も、特にクラシックの世界には多い。
それは一面では、とても美しいお話。
親の愛と理解。
その期待に応え、恩に報いる良き子供。
安心して喜び励ます、良き親。
しかし、その美しいお話は、それだけでは終わらないことがある。
音楽の才能を持ってがんばっているその人自身の心の内にだんだんと、得体の知れない重荷と憂鬱が巣食うことがある。
ここまでがんばった。よくやった。
これもお母様お父様のおかげ。
お母様の夢は私の夢。
一緒に叶えた私たちのしあわせ・・・・
のはずなのだが。
なんだか満たされたかんじがしない。
なぜか、苦しい。
何かが、重い。
わけのわからない憂鬱。
密かに抱える苛立ち。
いったいこれは何?
音楽の世界は厳しいから。
完璧にやらなければならない緊張感
常に向上しなければならない危機感
人間関係の難しさ
つまり現場のストレス。
だからねー。
・・・・と
とりあえずそう思うのが妥当なのかもしれない。
だから日々のお酒で解消して
というより正確に言うなら
とりえず忘れて。
忘れるまで飲んで。
そしてまた明日
厳しい戦場に戻る。
そう思って闘えるうちは闘うのもいいけれど。
本当のことを話そう。
その苦しさ、重さ、
憂鬱と苛立ちの根源は、
実はたぶん音楽でも現場でもない。
親。
あなたは親の恩を背負っている。
その恩があるからこそ
今こうして音楽ができている。
恩を背負うと、
人はそれを知らぬ間に
「負債」に変え、そしてやがて
「罪」に変える
これだけお金をかけてもらって
私のために
これだけしてもらってるのだから。
親に負担をかけた。
苦労をかけた。
がまんをさせた。
そこまでして、私はしてもらった。
その負債を背負うほどに
自分が自分自身であることを
「悪い」と感じるようになる。
今ここに親がいるわけではないのに
自分のすること、思うこと、一つ一つに
見えない「親の目」がついて回る。
その「親の目」は
自分が好き勝手なことをしそうになると
悲しそうになったり
今にも怒りそうになったりする。
あなたはその「親の目」に対して
「悪い」と思う。
本当は嫌だなんて、悪いから言えない。
本当はこうしたいなんて、悪いから言えない。
本当に私が望むことなんて、悪いからできない。
私が私自身の価値観で
親の価値観の枠の外へ出るなんて。
そんなことをしたら
悪いから、傷つけるから、裏切るから。
これだけしてもらってるのだから。
これだけしてもらってるのに。
そんなこと。
そもそも、そんなこと思うなんてありえない。
親を傷つけるようなこと、裏切るようなこと
思うようになったらおしまいだ。
だから、思わない。
私はこれでいいんだから。
そうやって、
たくさんの恩と愛を
自分で負債と罪に変換して
十字架を背負って
今日も音楽をやる。
音楽はいつの間にか
罪滅ぼしの苦行になる。
まだ未熟だから
まだダメだから
わたしなんて
わたしなんて
誰のための、何の罪滅ぼしなのか。
そんなことも
それが罪滅ぼしであることさえも
自分ではまったくわからないままに。
恩を恩のまま、愛を愛のまま、受け取っていい
そんなふうに
たくさんしてくれた親に対して
そんな負い目を持って
苦しくなっている人に伝えたい。
恩は恩。
愛は愛。
それは親自身がしたくてしたことだ。
恩を恩のまま
愛を愛のまま
ただ受け取ることだ。
ただ受け取っていいのだ。
親があなたに
愛をもってしてくれた数々のこと
そこにはちゃんと
親自身の喜びが詰まっている。
親はあなたに
喜びながら愛をくれたのだ。
もうすでに親は喜んだのだから
あとはあなたは
ただもらって喜べばいいのだ。
それをあなた自身の血肉にすればいいのだ。
それがいちばん素直な
愛の受け取り方。
せっかく美しい喜びとともにくれた愛を
自分で勝手に
罪という泥まみれにしてしまうことの残念さ。
自分一人で
負債という荷物にして背負い
作り笑顔の下に苦しい顔を押し込めることの恐ろしさ。
愛と恩を受けたこと。
それは罪ではない。
受けた愛と恩を
ただあなたの喜びとし
そして、それを土壌として
あなた自身の花を咲かせるのだ。
その花はかつての親が望んだ花とは
違うかもしれない。
いつかはその分かれ道を受け入れることだ。
それが大人になるということ。
そうであったとしても堂々と
まずはあなたが
自分の花を咲かせて喜ぶのだ。
咲いて親が喜ぶ花ではなく
自分が咲いてうれしい花に。
そこからが本当の成熟のはじまり。
なによりもあなたが
負債という心の十字架を下ろし
罪とという鎖を脱ぎ捨てて
風のように軽く自在に
心から微笑む人になる。
そんな幸せそうな人が奏でる音が
人を幸せにするはず。
人と幸せを分かち合えるはず。
その音楽は
人と幸せを分かち合いたくて
奏でているのではなかったのだろうか。
あなたが幸せでなくて
どうして分かち合えるだろうか。
たくさんの愛と恩恵を受けて
幸せを分かち合う音を
響かせるよろこび。
そんな幸せそうな姿を見せることが
親孝行でないとでも?
見せかけの
どこかで決められたような
親孝行じゃなくて。
本当の
自分の心と人生かけた
親孝行をすればいい。
親孝行とは
その親本人だけにするもんじゃない。
恩を世界に回していくのだ。
それだけ恵まれたあなたが
たくさんの恩と愛と恵みがあったからこそ
咲かすことのできる
あなただけの花を咲かせ、実らせる。
たくさんのその実を大地に撒いて
世界に還していくのだ。
音楽という宝をもらった
あなただから
その宝を磨く機会をもらった
あなただから
できること。